■2022/10/31(月)
この日のことは何も覚えていない。ははは
■2022/11/01(火)
火曜は世界が恐ろしく、すぐにでもこの世の終わりが到来する前夜のような風景にみえる。「この世の終わり」とはどのような状況を指すのか、掘り下げて考えてみればそう大したこともないのだが。
それは単に惑星が居住不可能になる様子か、あるいは、宇宙の原理原則が突然変異して現在の存在形態を失うような出来事。具体的な状況として表現しようとするのであれば、私にはその程度の物語しか思いつかない。
しかし感じるのは、人の個体の死や生物の絶命というよりも、何かもっと意味のない巨大な終わりだ。物語の外にある終わり、歴史や物語の外から突如やってくる終わりなのだ。
だから特段に恐れる必要もないと思う。そんなに巨大な終焉のことを、ちっぽけな私が恐れたところで、ぜんぜん仕方がないというか。
終わり終わりと言ってみるが、私が感じるそれは死とかではなくて、もっともっと観念的な気分のことなのだ。これだという言葉が出てこなくてもどかしい。終わりの実態はよくわからないが、終わりの前夜の気分だけがここにある。
私は終わることそれ自体が怖いのではなく、終わりに向かいつつある時空間の気分が恐ろしい。飛行機がロスト・コントロールして墜落する最中のような、最大深度を遥かに超えて沈みゆくUボートのような、破滅や終焉が到来する蓋然性が高すぎる状態の気分。そんな状態は体験したこともないのに、なんとなくそんな終わりの気分を、窓の外の風景全体に感じ取ってしまう。
あああ、ロバート・ベン・ローズの撮影写真を思い出してしまった。あの写真はものすごく嫌いなのに……。
たぶん「終わりに向かいつつある時間の中にいるのだ」という感覚が、必要以上に鋭敏になる周期がある。死を終わりとするならば、すべて生きる人は終わりに向かいつつある同志なわけだが、そうじゃなくなにかもっと漠然として、巨大で超越的な終わりの姿の到来を感じるのだ。
こういう、どうにもならない感覚は、しっくりくるまで絵画言語にしてみるしかないか。言葉ではまずどうにもならない。
■2022/11/02(水)
また記憶なし。
真剣に考えれば思い出せる気もするが、ねむいし。記憶を失うのではなく、思い出すという動作に規制がかかっているだけだ。今日はもう余力がないだけだ。
たぶん作品制作をしていただろう、なぜなら明日は展覧会の搬入日だから。
* * *
日記を書く意義についてだが、
やはり彫刻だと思う。日常を彫刻することだ。
彫塑と言ったほうがいいだろうか。
辺り一面にぶちまけられた様々なテクスチャの粘土片、のように無作為で美学のない生活、そこから惹かれる部分を拾いあつめて形にする。
とにかく、ものの塊に手をくわえることだ。粗野な心象に、なにか美意識の手を加えるようなことだ。
■2022/11/03(木)
銀座の阪急メンズ東京7階で展覧会。その搬入作業。
搬入搬出の際にいつもお世話になっている赤帽のお爺さんと、少しずつ仲良くなれてうれしい。助手席に乗って移動する時間、いつも何かしらのレシピを教えてくれるようになった。そこに彼の個人史を感じるし、レシピ一つで生活の様子や厚みが見えてくる。
他人のどうでもいいような基本動作に宿るわずかな風情から、その背景を想像するというゲームは本当にたのしい。失礼に当たるので、答え合わせをできないのが玉に瑕だが。
■2022/11/04(金)
最近は毎日同じ服を着ている。すごくいいと思う。
可愛い服を着て過剰なアクセサリーをつけてテンションが上がる、という体験を、ここ2年ほどしていない気がする。あんなにコレクションしていた、ファンタジー趣味の派手なアンティークの指輪たちも、開けない戸棚の奥のクッキー缶にすべて押し込んである。
テンションは上がりもせず下りもしないのが好ましいと、今は思う。テンションが下がらない程度の外見的な作為がちょうど良くて、それ以上は消耗をまねく余剰だ。
あんなにもキラキラしたラメやクリスタルが大好きだったのに、ここ1年で、身の回りのものをすべてマットな黒色に統一するようになった。視界の邪魔になるものが憎い。とにかく「気が散らないこと」こそが物を選ぶ第一条件になった。黒はいい。黒は静寂だ。でも、黒い服だけは嫌いだ。黒い服を着ると体が消えてゆくみたいに感じるものだ。
■2022/11/06(土)
部屋中を徹底的に片付けた。
やっぱりこれが好きだ。物の適切な住所を把握できる状態が好きなのだ。
片付けは、仮想空間の制作なんだと思う。
この部屋のどこに何が位置しているのか、頭の中に明快な地図をつくることができる。それは身体の拡張だ。自分の鼻や耳がどこにあるのか、膝や尻がどこにあるのか、いちいち深く考えなくてもわかりきっているのと同じように、部屋のどこに何があるのかわかりきっていると感じられる状態になるのだ。
まあ、もちろん微生物や病原体などは目に見えないので、「わかりきっている」と言っても解像度に限界はあるが。生活に必要なレベルで把握ができているということだ。
まるで自分の身体のように、部屋のどこにどの部位が、どの機能が位置しているのかがわかる。「この部屋のことなら何でも知っている」と勘違いできる仮想空間の範囲を拡げて、その中で眠るとすごく落ちつく。
そんなことが可能なのは、もはや自分の家の中だけだ。街は多勢の他人の流入によって毎日急激に変化しているし、どこに何があるのかなんて、とてもじゃないが把握できない。50年前の地方町村ならそれも可能だったかもね。
* * *
2019年の映画『テッド・バンディ』を観た。
ふつう、実在の殺人者を映画にするのならば、その残忍な犯行シーンを中心に脚本を組み立てそうなものだが、この映画はまるでちがう。手に汗にぎるシーンが一切無い。殺人の様相をけっして映さない。
もちろん観客は、テッドが稀代の殺人者であることをあらかじめ分かっていて映画を見始めるわけだが、作中のテッドは最初から最後まで徹底して魅力的な善人として描かれる。この手法には膝を打った。ふつうに見える人物への恐怖が上手にきわだってくる。人のよさそうな、爽やかな隣人への恐怖だ。
■2022/11/06(日)
目が醒めると、窓の外の街並みが、鬱血して壊死寸前の皮膚の色のようになっていた。
快晴の午前11時頃だったから、陽の光の加減ではないと思う。自分の網膜の異常かとも思ったが、空は何の変哲もない水色で、眼下の街並みだけがまるで別レイヤーのように濁った紫に染まっていた。
あれは何だったんだろう?
一瞬ではなく、10分か15分のあいだ街は鬱血色で、私はそれをベッドに座ってじっと眺めた。彩度と明度の低い赤紫というのか、あれは本能的に良くない色だ。好きになれない警告色だ。
まるで夕陽に照らされるみたいに、街の全体が壊死しかけていた。あんな色の街を見るのは初めてだった。思わず「これは昔2chのオカルト板で読んだ平行世界へ移動したのでは?」と疑った。
それから部屋の中で、何かが床に叩きつけられる大きな音がした。
びっくりして家中を探すが、何かが落ちた様子はない。音はくぐもっておらずクリアで、隣の家や上階や下階から鳴ったという感じでもない。確実に近くで鳴った衝撃音なのに、まるで形跡が見つからない。一体何が落ちたんだ?
* * *
Barbara Hanniganが歌うエリック・サティの歌曲、Trois Mélodies: No. 1. Les angesをリピートする。
すごくよい!サティのピアノ曲以外を初めて聴いた。澄んでいて気持ちがいい。