ぼくはおびただしい量の光の中にいた。

 

光だけではない。音、匂い、温度、質感、ありとあらゆるすべてが何の区別もなくひとかたまりとなってこの世界中に漂っており、その漂うすべての渦の中に、ぼく自身もどろどろになって一緒くたに溶け込んでいた。

そもそも「自分」という概念すら無かった。身体のすべてが偉大なる感覚器官となり、目も、耳も、皮膚も、手足も、この記述のように言葉で識別されてしまわないひとかたまりの球体だった。

 

夢の話ではない。
これは生後数十日くらいの記憶の話だ。

 

そしてすこしずつ世界の分化がはじまった。
ありとあらゆるすべてが混じり合っていたカオス空間から、例えばヒトの顔の形を識別することができるようになった。ほんの些細な聴覚の左右差から、方向という概念を知りはじめた。ぼくら人間は生後ものすごいスピードで世界を識別しつづけ、多分、意識のある限り、死ぬまでそれを辞めることはできない。

生後数ヶ月もすれば、世界中にぐちゃぐちゃと充満していた無数の音の粒々の中から、言葉とそうでないものの組み合わせを分別できるようになる。

言葉を利用しはじめることで世界の「仕切り」は指数関数的に増えてゆく。

世界はもっともっと細分化されてゆき、それはさらに説明しにくい概念にまで及ぶ。
善や悪、好き嫌い、あまりにも大量で、枚挙にいとまがない。

 

 

やがて幼いぼくらは、世界と自分を区別して考えはじめる。
この世界の中に存在する自分、という世界観のリアリティが鮮明になってゆく。
ゆるやかな変化だ。
自分と誰かのあいだに差異を識別し、他人がどんどん他人になってゆく。
世界を客観的に体験しはじめる。

発達心理学的には、これが大体9歳くらいらしい。社会という概念を認識しはじめるのもこの頃だ。

 

人間社会とか他人とかいうものを感じはじめると、途端、世界の見え方が変わってくる。それまでは世界と人間がとろとろに融合したひとつのスープのように見えていたのが、だんだんと、人間の輪郭がはっきりと立ち上がってくる。

世界のスープに浮かぶ、人間の具材。

まるで自分の部屋から外を眺めるかのように、自分と世界とを隔てる境界をくっきりと感じはじめる。
そうして世界と切り離されてゆく感覚にもすぐに慣れ、以前の未分化な感覚なんてものは不要物として忘却されてゆくのだ。

 

 

 

ところで、ぼくは、社会という概念を体感しはじめる前の感覚を思い出すのが大好きだ。世界と人間とがとろとろに融け合ったひとすくいのスープだった頃の、未分化の感覚。

 

もしかすると長らく思い出そうとしていないかもしれないけれど、あなたも絶対にその感覚を憶えているはずだ。
試しに9歳より以前の記憶を、頭の中で説明的な言葉を使わずに、身体感覚だけで思い出してみてほしい。言葉は絶対使わずに、まずは視界から、そして皮膚感覚。
なるべくぼんやり抽象的に、あの日にタイムスリップするようなイメージがいい。
言葉を殺したほうが解像度の高い身体感覚が蘇ってくる。

もしよかったらそのタイムスリップの補助材として、ぜひぼくの描いたこれら一連のイメージを使ってほしい。

 

 

ぼくらは世界をあまりにも細かく識別しすぎてしまった。
社会の中の自分、都市の中の自分という視点に慣れすぎた。
その視点はかつて幼い自らが作り出したものであるにもかかわらず、疑問すら抱かずにその視点を採用しつづけた。

逆に自らの中に社会や都市を内包するような、あるいは自分自身と社会や都市や空間や世界といったものが区別されずに融合しているような、そんな視点のイメージを描きたかった。

 

 

何が目的というわけでもないが、ただ、かつてぼくら全員が経験した、すべてが未分化だったころのうつくしい世界観を一瞬でも取り戻したかった。

 

 

 


 

……という自分の作品に対しての文章を、半年前の2017年8月にコンペの為に書いたんだけど、半年前はがんばって他人に興味関心があるフリをしていたので今となってはちょっと違うかも。

ぶっちゃけ今のところ私だけが「世界と人間とがとろとろに融け合ったひとすくいのスープだった頃の未分化の感覚」をリアルに体験して一人でトリップできるならそれで良いと思っていて、他人が社会の不寛容な規律の中で苦しんでいようが仕方ないしどうでもいいと思っているかも。

もうちょっとおばさんになったら、私の作品で誰かを救いたい!とかいうメサイアコンプレックスに目覚めて、他人に世話を焼きたくなるかもね。

 

文中の一人称がぼくなのは、
「私」だと3文字で語呂が悪いから。
女性用の一人称が「ワタシ」しかないのって本当に不便。耳を颯爽と過ぎてゆく2文字か1文字の一人称が好みなんだけど、オレ/ボクは男性用だもん。
一人称は頻出するから会話や文章全体のテンポと雰囲気を支配するのに、3文字の選択肢しかないというのはすっごく窮屈に感じる。

そもそも自分のことを示すのにワ・タ・シって3音も費やすのは長すぎるので、日本人が主語を省いて話すようになるのも必然だよね。我愛你とかJe t’aimeとか、一瞬で言える一人称でうらやましいな。

 

 

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