2017年5月、アトリエに3つの巨大な荷物が届いた。
荷物を包む茶色のクラフト紙を手で雑に破いてゆくと、麻の巨大キャンバスが顔を見せる。

 

私は梱包を開けることが好きで、そして梱包を開けた後の7秒間が大好きだ。
その7秒、また新しいものが自分の物になったのだと、湧き上がる高揚感に陶酔する。しかし8秒後にはすでに自分のものであるというつまらなさがあり、10秒後にはどことない飽きが生まれはじめる。

自分のものになったキャンバスの表面を撫でる。手の水分を抜かれるような触感がある。そろそろ大きな絵を描きたいと思って注文したのだ。ここ最近は小さい作品ばかり描いていて、あるいは描かされていて、満たされぬ衝動を抱えているところだった。

 

3枚の巨大キャンバスの梱包を解き、壁に掛ける。
1日かけて黒のジェッソで下地を塗る。ほんの数ミリの高揚感がある。
夜、窓の外の通りすがりの外国人が、笑顔で手を振ってくれた。
3日かけてシルバーホワイトの油絵具で表面を作る。これにはあまり高揚感がない。色は余計だ。あくまでも現段階においては、私の作品はこれだけでいい。

 

描くものは決めていた。風神雷神図である。
俵屋宗達の国宝・風神雷神図を参照して作品を描くと決めていた。

俵屋宗達の名作を参照するなんて自信家だとか、名作に対する敬意がどうのこうのと茶化されたりもしたが、うるせえ黙れと思っている。私は何も俵屋宗達を刷新したいのではなくて、風神と雷神という象徴的な組み合わせが、いま必要だと思ったのだ。

 

 

取り急ぎ、風神雷神図に対する実感を得るために京都に向かった。
本物は京都国立博物館に仕舞われていて観ることができなかったが(公開されたらまた観に行かねばならない)、風神雷神図の本来の居場所である建仁寺へ訪れた。ここには非常に精巧なレプリカがある。
信じられないほど立派な寺で、ここでは本来の見え方を感じ取ることができた。夜、蝋燭の薄明かりの中、ちらつく炎に照らされた屏風がどのように揺らめいて見えたのか…。想像に過ぎないが、しかし、単なる紙に付着した顔料にすぎないその神々の図が、この世のもの以上の存在に見えたことは確かであろう。

余談だが、
養源院に所蔵されている、まだ無名の俵屋宗達が描いた襖絵。唐獅子や麒麟などを図案化した素晴らしい絵であるが、この頃の宗達の筆づかいと風神雷神図屏風での筆づかいとを間近で見比べて、思うところがある。俵屋宗達についてはまたいつか真剣に考えて書くことにする。

 

 

さて、
無限空間のような金箔の中、風神と雷神が対峙している。

しかしこれは風神vs雷神という戦いの構図ではない。
彼らが意識しているのは彼らの間にいる存在、屏風の中心で彼らを見つめる我々の存在だ。
だからこそこんなにも大胆に、画面の中心に大きな空間が確保されている。

 

力の雷神がこちらを見つめている。
その緊張から逃げようと風神に目をやると、風神の目はしっかりと強く雷神を見据えているのだ。
風神の視線に誘われるように、あるいは風に吹かれるかのように鑑賞者の視線は再び雷神へ、そして風神へ、雷神へ、風神へ、雷神へと、2柱と1人の関係はぐるぐると循環する。

超越的な力を所有する雷神、
時間的・空間的存在である風神。
彼ら「力」と「時空間」が私個人を、鑑賞者を意識している。
今にも弾けそうな緊張関係が完成する。

 

この三者関係、この構図は、まさに今必要なものであると思った。
大陸と大陸の狭間に浮かぶ我々の列島の状況に重なって見える。張り詰めるような不安や緊張を感じざるをえない。私にはまだ社会状況や政治を語る言語能力が足りていないのでこれ以上は控えるが、きっと私の拙い言葉からも読み取ってくださる方がいらっしゃると信じている。
この構図、このアンバランスな三者関係は、人類によく見られる普遍的な構図なのだ。

 

 

さて、
風神と雷神だとわかるよう、彼らの特徴をありありと描こうとしているわけではないが、対峙する2つの存在 (彼/彼女らの意識は中心に立つ鑑賞者を捉えている) 、この素晴らしい構図で作品を創りたかった。そのタイミングが今だと思ったのだ。

 

まず、ある程度の位置関係を決める合成画像をつくる。
今までの作品を合成してぼんやりとした全体像を決めるだけで、全くこのとおりになるわけではない。何度も言うが、風神と雷神をそのまま描くわけではない。作品タイトルも全く関係ない言葉にするつもりだ。

 

 

早速キャンバスにインクで線を描いてゆく。
大まかな流れの方針を決める線を描いてゆくと、あとは自動筆記のようにするすると進んでゆく。どの作品も同じ、いつもの流れだ。いつもどおりに「大まかな流れの方針を決める線」まで描きすすめ、そこで手を止めてしまった。

 

何となく、完成形が予想できてしまったのだ。
これはまずい。

 

 

何となく完成形が予想できてしまった。
それでは意味がない。

風神のこと、雷神のこと、
ひいては風や雷という現象と人間との関わり、
それについてもっともっと真摯に考えてから進めなければ、このまま完成予想図どおりの作品になってしまうと思った。
真摯に考えねば、この作品は単に俵屋宗達の風神雷神図のエッセンスを感じながら描いただけの死ぬほどつまらない無意味な駄作になってしまう。

作家の気持ち…、私は「気持ち」という思考停止じみた言葉が大嫌いなので言い直すが、作家の知識や思想や情動などによる信念体系は、どうしてもその制作物に影響してしまう。

 

このまま自動的に完成させるだけであれば、人工知能に任せた方がいい。
もっともっと、風神と雷神について、風について、雷について、
ものすごく真摯に考え抜き、その過程において人間らしい矛盾した考えや偏った考えや感情的な考えを抱き(そもそも神という存在自体、人間の考えが生み出した偉大なる感情的矛盾だ)、その矛盾や偏りや過感情を抱いて挑まなければ、何ら創造の面白みがない。オーバーヒートを迎えるまで考えなければならないのだ。

 

しかしもしかすると、都会で生きる私のような人間に、風や雷について実感を伴って真摯に考えることなどできないのかもしれない。

風神や雷神、風や雷についての情報を集め、それらしく考察を形づくることはできるかもしれない。しかしそんな考察の外枠を形成しただけで勘違いしてはいけない。アーティストはそれではいけない。実感を伴わなければならない、当事者でなければならないと私は思うのだ。

豪風雨に見舞われればバスやタクシーに乗ればいいだけの人間に、
風や雷について考えられるだろうか?

畑を持ったことも、作物を育てたこともない。
いつもコンビニやレストランで飯を手に入れる。
そんな人間に、風や雷について考えられるだろうか?

大地の力を、豊穣の喜びを、育成ゲームの中でしか感じたことのない人間に、
風や雷について考えられるだろうか?

 

 

 

自信はないが仕方がない。
これから、風や雷について、私なりの考察を書いてゆこうと思う。

 

 

 

“途中まで描いて手を止めた話・風神雷神図について” への3件のコメント

  1. 地塗りのシルバーホワイトを塗るのに高揚感が無かったと書いておられますが、チトもったいないですね。せっかくご自分で地塗りをしているのですから、その段階で「絵を描いている」はずですよ。
    画家はドイツ語ではマーラーとツァイヒナーに分かれますが、石井さんは今はツァイヒナーなのかもしれませんね。
    風神雷神の感覚を掴みたいという発想は意味深いですね。私も暴風雨の時、会えて外に出て風雨に身を晒したことがあります。それと地の部分をどう空けるかという、間を取る技法、幾何学も宗達の絵から学べそうですね。

  2. 風神雷神を下敷きにする、その意気や良しと思います。
    多くの人は宗達の覇気を受け止める精神力が足りなくて、等伯や光琳のデザイン美に惹かれてしまいます。まあ区別できない人も多いですが。
    時に、左右を入れ替えてしばらく置いて眺めてまた戻すと、風神雷神図の中央部の間のエネルギーを確認する一助になるかもしれませんよ。絵を真ん中で切断して入れ替えると図像が芸術になるというのは彦坂尚嘉氏が発見した事です。
    ちょうど今上野の都美術館で彦坂氏が率いる「切断芸術運動というシミュレーションアート展」が、7月6日まで開かれています。18名も参加していて、無料ですが制作上参考になる作例が多いです。

  3. 今までの製作過程が、表題を意識せず心が自由に、想像空間で動いていたと感じます。今回、貴女は自分の作品に「風神雷神」という限定を設定しましたね。無意識に今ある美術作品の魅力に心が半分向いているのではないかな。深く分析すれば、今の自分により良い作品を描くこと望む、レベルの次の段階への欲求があるのでは?余りにも自分の製作の出来や、完成度、にこだわると、自分で自分を縛ってしまう、言わばスランプに陥るそのふちに、いまいると思います。製作への本来の欲求、描きたい、筆を持ちたい、キャンバスに向かいたいという、心のパワーを十分に、溜めて、時間を掛けて。製作環境を自分に最適なものにするために、SNS,メデアへの露出を控えて、本来のアーティストの立ち位置にもどれ。

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