エリクソンが「視覚以外を第一の表象システムにしているクライエント」に対して言葉を与えてゆくことで内的対話を停止させ、視覚の表象システムを発現させている。そのレポートが興味深い。

 
ぼくは朝からすでに泣きそうだ。
 
 
 
引用

視覚以外を第一の表象システムとしているクライエントは、「絵を想像すること」と「絵を見ること」を区別していることがよくわかる。
クライエントは最初は通常、曖昧で比較的絞りの甘い、図式化した不安定な視覚的イメージを報告するが、二度目になると、思い描くイメージは焦点が絞られて安定し、直接的な視覚入力による完全さや豊かさ、鮮やかさが備わってくる。
これまで見てきたいずれのケースでも、「絵を想像する」という体験は言葉による内的対話と結びついているのに対して、生き生きとした視覚化には、それに結びつく言葉による内的対話がない。クライエントは最初、明らかに自分の言語システムをリードシステム/誘導体系として使いながら絵を描くが、二度目には、非優位半球にある絵に直接アクセスする。

 
 
 
つまり、言葉による内的対話を停止させることにより「直接絵を想像する」ことを可能にさせる…、言語によって絵を連想するのではなく、直接視覚化することを可能にしている。
言語による知覚の束縛ともいえるような状態から解放され、直接、視覚に回路を繋げることに成功している。
 
ぼくは鑑賞者の内的対話を停止させ、言語からの解脱を可能にする絵画や彫刻や…あるいは何でも良いんだけど、そういうものをつくりたいとかねてより願っている、可能だろうか?
 
 
 
 
呪縛とも呼べるような、言語による知覚の限定からはやく解放されたい。
大人になり、言葉を憶えれば憶えるほど、景色が言語で叙述されたものに見えるようになった。
 
ぼくは大人になるというのは言語(と、それにリンクする概念)の記憶数が増えることなのだと確信している。
むろん、身体的成長や老化、肉体におけるエントロピーの増大は即ち大人になるということではない。そんなことを大人として定義するなんて、浅はかすぎてばかばかしい。
たしかに言語を憶えることで考え事はし易くなったけど、でもさぁ、
 
ダニエルキイスの「アルジャーノンに花束を」を思い出す。
子供になりたいわけじゃないけど、ただ、幼い頃にみた雑草のうつくしさが忘れられない。
 
 
エリクソンは一時的にクライエントの言語を封じることを可能にしている。言い換えれば質量なき絵画をヒトの頭の中に描いているんだ。
 
これはすごいぞ。
 
 
 
 
 
 

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