I assimilate to the desire of creation possessed by <world / place / living thing>

 

▶︎〈世界・場・生物〉が持つ生みの欲動に同化する
▶︎〈場〉での体験によって齎されたイメージを再現する
▶︎ 私の《自己消滅Self-Obliteration》はフラクタル構造である

 

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〈世界・場・生物〉が持つ生みの欲動に同化する

 

私が作品制作する際の構えについて説明しようと思う。

“作品をつくる”のように特別めいた時空間に限らず、街を歩いたり、料理をしたり、人と会ったり、そういった一般に何かを行なっていると言うべき日常においても、私には“自分という主体が行動を起こしている”という現実感が欠如している。

望まぬ労働をしている時だけはやたらと現実感のようなものがあるので、その対比によって現実感の無い状態を認識することができるのだが、とにかく私は隙あらば“自分という主体が行動している”という現実感を喪失してしまうのだ。

(ちなみに労働の現実感は私にとって耐えがたい苦痛である。積極的な彷徨、待機の状態を生きようとしていた詩人アンドレ・ブルトンが、いわゆる定職につくことを拒んだばかりか「職業として書く」こともよしとしない生き方を選び、労働の道徳的・精神的価値を神聖化するような言説を非難していたことに心から共感する。小学生の頃の私の将来の夢は「さすらいの詩人」だった。)

 

私にとって現実感がないということは、
つまり〈今ここ〉の私の視点が不在になるということだ。

〈今ここ〉の私の視線は、〈どこでもない〉時空から〈今ここ〉の私を眺めている私の視線に重ねられている。例えば何か楽しいことをしていても、〈今ここ〉の私の視線は、別の複数の時空から〈今ここ〉を羨む私の視線に重ねられている。数時間後、数日後、数年後に、今の私こそがあの時私を見ていた別の時空の私のうちの1人だと思うことが幾度もある。あるいは過去の私が〈今ここ〉の私を羨ましそうに見つめていた視線に重なることもある。視点はそこらじゅうに分散し、ありとあらゆる時空に同時に宿る。

 

私の視点は〈今ここ〉から〈どこでもない〉時空へと分散し、〈今ここ〉の私の視点はゆっくりとに希薄になってゆく。私は遠くから私を見つめている。それに伴って〈今ここ〉の私を動かしているのが私であるという実感が失われてゆく。

では、一体〈今ここ〉の私を動かしているのは誰なのか?

それは私に絶えず流れ込む世界だ。

私が私を動かそうとしなくても、私と同じ形をした世界が私を動かしてくれる。

 

私は世界の部分であり、あなたも世界の部分であり、そして部分と世界は相似形をしているのだ。
私はあなたの中にも私を見るし、私の中にもあなたを見る。世界中で私を見つけることがあるし、世界中にあなたを見つけることがある。

私は無数の同じ形をした私の中に消滅してゆくが、
私の形が消滅することはない。

 

 

この慢性的な当事者感の欠如を精神医学では解離症群に区分するのだろうが、私にとってのこの感覚は、症状という単語が表すような“人生における非常事態”などではない。いつだって私たちは世界に動かされている。街に歩かされ、食材に料理させられ、他者に言葉を話させられ、肉体に生かされているではないか。私が私を演じなくても、世界が私を演じてくれる。ならば世界に多くをゆだねて、私は私を超えたさすらいの旅に出よう。

 

世界の海に彷徨う2つの眼球、それが現在の私の自己イメージだ。

 

 

 

さて、作品制作の際にも、私には全くもって“自分が作っている”“自分がデザインしている”“自分が描いている”などという当事者的な感覚は無い。

自らが接触しているこの〈世界〉や〈場〉や〈生物〉それ自体が、何かを作りたいという創作願望すなわち《生みの欲動》を持っていて、私はただただ自らの中に流れ込んでくる《生みの欲動》を、自らの欲動そのものとして同化させてゆくのだ。

 

〈世界・場・生物〉の欲動が私に憑る。私も〈世界・場・生物〉に欲情する。
〈世界・場・生物〉とまぐわうようにしてイメージが生まれてゆく。

【世界】…現実界/宇宙/摂理/渾沌 etc…
【 場 】…文明/地球/社会/土地/都市/環境 etc…
【生物】…人物/動物/植物 etc…

 

あいにく2018年現在の私は《生みの欲動》についての詳細を語れる能力を持ち合わせていないが、その断片を感じる他者の言葉をスクラップしていこうと思う。
以下は舞踊家・田中泯の言葉である。

 

私は場所で踊るのではなく、場所を踊る。 

「私」とは内容のない形式である。
「私」でなくても構わないことを日々夢中になってやっている自分という「体」を、時に残念に愛おしく思うのです。もう単語の意味をとびこえた「私」を踊りたいのです。それが無意識の時代の「私の子供」なのです。
(田中泯公式サイトQuotations : Min Tanaka http://www.min-tanaka.com/wp/?page_id=45

 

先日、道後オンセナート2018のオープニングセレモニーで、私に指定されたステージ上の立ち位置は幸運なことに田中泯氏と肩が触れ合うような隣だった。近くで見る田中泯氏の佇まいのひそやかな気配、まるで肉体ごと環境と同化しているような融け方にいたく感動した。

彼に「場踊り」を踊らせているものは、私が考える〈世界・場・生物〉が持つ《生みの欲動》に限りなく近いものではないだろうか。私は今のところ《生みの欲動》によってちまちましたイメージの制作に駆り立てられているが、そう、あの田中泯の素晴らしいダンス!何よりも場の《生みの欲動》に同化してから実際に生むまでの時間間隔が限りなくゼロに近く、その感度の高さはまるで全身が眼球であるかのようなのだ。

私は《生みの欲動》に同化してからの長すぎる妊娠期間ともいうべき時間間隔によって、何を獲得し、何を喪失しているだろうか。それについて考えるのはまた別の機会にするとして、ここまでの文章で少しは私の制作態度を言語化することができただろうか。

 

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あの「下書きはしないんですか?」という今までに1000回以上は訊かれてきたであろう定番の質問への誠実な回答はこうだ。

私にとってのイメージの制作は、
主体のコントロール下で全体観を制作することではない。

さらに、私はイメージの発生源でも設計者でもないので、自分でだって全体観がどうなるのかわかっていないのだ。たしかに私はすこしの構成要素(画材や描き方や意味など)を監督するが、あとはただその構成要素による絶え間ない生成→増殖→破壊→生成という無限の円環を、どこでもない時空に漂う2つの眼球で見つめているだけなのだ。

しばらく後、私は時限によって死神となり、生成と増殖と破壊と生成の無限の円環に死を齎す役目を担うこととなる。イメージは完成に至るのではなく、生の途中で死に絶えるのだ。しかしその死を以ってしてイメージは作品という死体になる。私からすると死に絶えたイメージは私の子供の死体だが、他者から見て作品に見えるのであればそれでいい。

 

何故私はそんなことをするのか?
そんなのはわからないが、けれどもしも失明してしまったとして、そして巨大な希死念慮を超えることができたとして、それでもまたこの世界の《生みの欲動》によって歌を唄ったりダンスを踊ったりできたらいいなと思う。

 

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〈場〉での体験によって齎されたイメージを再現する

 

ここまで〈場〉のもつ《生みの欲動》に自らを同化させることによってイメージを生みたくなる…という説明をしてきた。私はイメージの発生源ではない。たとえば最近制作したイメージの発生源は、道後温泉本館に入湯した体験である。

まったく見知らぬ人々が、皆一様に同じような全裸になって同じお湯に浸かる。
私にとっては全く馴染みのない体験だ。人々はひとつの巨大なスープの具材となり、湯気に掻き消されて年齢も外見もよくわからなくなってゆく。服を着ていなければ大した特徴もない。温泉に入ると、人々はそれぞれの区別や輪郭を失ってゆく。温泉という謎の体験がこんなにも長い期間(道後温泉は日本書紀にも登場する!)愛されてきた理由として、もちろん泉質やその効能によるところも大きいとは思うが、もしかすると人々が大体同じような姿になって融け合う光景というのも温泉の癒しの効果として機能しているのではないだろうか。

道後温泉での、大勢の見知らぬ人々と裸で同じ水に浸かるという異様な体験によって、言葉によってガチガチに定義された人々の輪郭が融解し、全員が同じような姿に解体されてゆくイメージが私の元へと訪れてきた。私はゆっくりとそのイメージに同化し、そして構成要素の監督をはじめた。

 

今回、私が監督した構成要素はこうだ。

まずは⑴通行人の輪郭。人物の輪郭をなぞり、⑵フラクタル構造(摂理/現実界/渾沌)の線の中に繋げて互いを融合させてゆく。そしてそこに誕生する⑶列なる都市(文明/大規模定住社会)。これら3つの構成要素の生成と増殖と破壊と生成の末、どんなイメージが生まれるのかは想像もつかなかったが、あとは不安がらずに生成→増殖→破壊→生成のサイクルに完全にゆだねる態度が重要なのだ。

輪郭を提供してくれた人の性別と年齢と出身地を書き込んだ。輪郭を解体してみせることで、それら言語的な座標がいかにどうでもよいものかを強調したかった。

 

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大人になると他者を言語的・記号的な枠組みに変換して理解しようとしてしまいがちだ。性別や年齢や経歴や主義や肩書きや外見的特徴など、複数の言語的なラベル(定義)を組み合わせた座標ばかりで他者を理解しようとする。そんな座標は他者の単なる表層/外輪郭でしかないにも関わらず、輪郭ばかりをなぞることしかできない人はとても多い。私もずっと他者からの言語的・記号的なラベリングの餌食になってきたし、自分が誰かを記号的に見ていることにふと気付いて自己嫌悪に苛まれることもある。

公開制作を行なっていた5日間、哀しかったのは人々から受ける質問のバリエーションの少なさだった。100人以上と会話したが、彼ら大人から受ける質問はほんの15種類程度に分類できてしまえた。

いつから描いているの(制作期間)/何で描いているの(画材)/下書きはしないの/どこの美大卒なの/何を表現しているの/何本ペンを使ったの/これは何ていうアートなの/どこから来たの/何歳なの/疲れないの/個展とかやってるの etc…

 

言語の習得、言葉への慣れはこんなにも疑問の幅を狭めるのかとがっかりした。言葉はこんなにも思考を自動化し、パターンの中へと幽閉してしまうのかと思うと哀しかった。しかし私自身もまた言葉を習得してしまったのだ。私はどんな地点に幽閉されているのだろうか?きっと私は狭い牢屋の小さな窓から見えるほんの一粒の星だけを見て、星の絵を描き、星の詩を書こうとしている。

私は意味の狭さに対して恐怖を覚える。私は閉所恐怖症であり多動症なのだ。
だから私はイメージに執着する。

 

イメージ・象徴は意味を伝えるものではない。
象徴はあらゆる意味を常に超越してゆく。
象徴が伝えるのは「あらゆる意味をも超越することが可能である」という体現であり、それは私の目の前で羽ばたいてみせる親鳥の姿のようである。

 

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私の《自己消滅Self-Obliteration》はフラクタル構造である

 

よく誤解されてしまうが、私は何も目立ちたくて自分の作品の柄の服を着て作品制作をしているわけではないし、ファッションとして着飾っているわけでもなくて、これは私が敬愛する草間彌生が執着したテーマ《自己消滅Self-Obliteration》へのオマージュなのだ。

 

今までの自分を自分で消滅させて、そして新しい芸術、新しい世界をつくる。私自身も、自己消滅の作品を何度も繰り返して。自己消滅、集積の作品だったと思います。それが人々の心を深く打って。今でも自己消滅です。
(草間彌生:8 自己消滅が新しい世界をつくる:朝日新聞デジタルhttps://www.asahi.com/articles/DA3S12952494.html )

 

彼女は自らの身体にも水玉を貼りつけることで、自らをも水玉の渦中へと放り込んた。一方では戦略的に芸術家という異形の存在感を人々の印象の中に際立たせながらも、創造主が創造物の中へと溶け込んでゆく様は、間違いなく芸術家の不在を提示してみせている。「地球、月、太陽、そして人間も、全ては水玉で出来ている」と語る彼女は、自らをも水玉に変換することで〈すべては水玉で出来ている〉彼女自身の芸術哲学を完成させている。私は彼女の態度に共感して、作品に融けるデザインを纏っているのだ。

 

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何故私はこんなにも草間を敬愛するのかというと、10代の頃、草間が生んだイメージによって救われたことがあるのだ。あのイメージとの邂逅は私の人生にとって重要な転換を齎した。

私が16歳の時に邂逅したのは、家具に無数のペニスが生えたソフト・スカルプチュア作品《集積》のシリーズだ。無数のペニスが生えたソファ《集積No.2》に寝転がる草間の写真に出会ってからというもの、少女だった私はそのイメージを何度も何度も繰り返し思い出した。

 

男根的なものに脅かされてきた彼女は、そういう男根的なオブジェで、机を、椅子を、いたるところを覆い尽くしていく。だが、ここでもまた、ある閾値を超えるとき、それらはおぞましいというよりむしろ滑稽なものとなり、ユーモラスな不能性を露呈してしまうだろう。増殖による去勢? いや、単一のシンボリックなファルスによる抑圧やそれへの反抗という図式を逃れ、無数のイマジナリーなペニスと戯れてみせる彼女の戦略は、去勢そのものの去勢と呼んだほうがよい。このように、増殖を通じた消失(オブリテレーション)や去勢の去勢という草間彌生の逆説的戦略は、彼女にとって心的な必然性をもっていたと思われる。(浅田彰【草間彌生の勝利】1999年 http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/techo05.html )

 

増殖による普遍化、普遍化によるシンボリックな単一の力の去勢。ユーモラスな不能性を露呈させて「カワイイ扱い」することによる去勢。

浅田彰は言及していないが、当時の私にとっては何よりも、無数のペニスの苗床が机や椅子やソファという家具であることが最重要だった。ソファに腰掛けてくつろぎたいが、腰掛けてしまえば無数のペニスが身体に突き刺さる。その選択を迫られる状況というのが16歳の私にはよく解った。草間の《集積》に、私は私自身の状況を見ていた。親や教師や友達よりも、草間彌生の《集積》こそが私の話を聞いてくれた。

無数のペニスが突き刺さることを解った上で、それでもソファでくつろいでみせる草間の姿が戯れなのであれば、その戯れは血まみれの戯れだ。

そう考えると彼女の水玉はペニスが突き刺さった痕のまるい穴のようにも思えてくるし、彼女の赤は出血のようにも思えてくる。無数のペニスが突き刺さり、赤くまるい穴の空いた身体で、なるほど確かに彼女は《自己消滅》しているが、それでも彼女は生きている。無数の穴を空けられても死なない、傷付いても傷付かない生命の強さが草間彌生の《自己消滅》だ。

その生命力の強さは展覧会タイトルにも表れている。「永遠の永遠の永遠」「わが永遠の魂」宣言どおり、彼女は死んでも死なないだろう。

 

確かに私は自己表現と自己消滅を求めることにエネルギーを注いできたわ。
でもね、私はアートを通して自滅するつもりなんてないの。
(草間彌生は「死に物狂いで闘ってきた」と語った。世界が熱狂する芸術家が生まれるまで http://www.huffingtonpost.jp/2017/02/20/yayoi-kusama-exhibition-tokyo_n_14871506.html

 

私の尊敬する草間彌生…。この世界を無数の水玉の集積とし、自らもその水玉のひとつとなってみせること。あるいは穴だらけの姿になっても生き続ける生命の強さが草間の《自己消滅》だった。

 

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それに比べて私にとっての《自己消滅》は、もっともっと情けないものだ。
私に彼女のような生命力の強さはなく、攻撃を受けて立つ強さもない。

私の自己消滅は、視点をあらゆる〈どこでもない〉時空に分散させること、そうして〈今ここ〉の視点の不在、現実感の喪失によって、世界を身体に憑依させる、あるいは自分の肉体と世界の肉体が同じものであると感じること。

私はどこへいった?
私はそもそもどこにもいないし、どこにでもいる。

 

ゆっくりと〈今ここ〉だと思っていた場所に、
〈どこでもない〉世界達が流れ込んでくる。

 

世界は私と同じ形をしているから、
だからこそ私は世界を自分と同じように尊重する。
私は世界の部分であり、そして部分と世界は相似形をしている。

 

私は無数の同じ形をした私の中に消滅してゆくが、
私の形が消滅することはない。

 

私の《自己消滅》は、冒頭で述べたフラクタル状の《自己消滅》である。

 

 

そういえばこのあいだの桜の季節に、私はこんなことを考えていた。

 

桜の幹の内側が桜の身体なのではなく、
私が桜を眺めているこちら側が桜の身体なのだとして花見をしよう。
そう考えればあの幾重にも分岐して張り巡らされた血管のような枝ぶりにも、その先からしたたる幻覚のように過剰な花びらの様子にも納得がいく。

桜というのは、身体の中に咲いた剥き出しの内臓なのだ。

 

 

たとえこの世のすべての桜が枯れ果てて消滅しても、
ここが桜の身体だったことに変わりはない。

 

 

 

 

(2018/04/22 石井七歩)

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