たとえば、

とてもうつくしい夕陽が浮かんでいて、

空がすばらしく染まっていて、

「見て、夕焼けがとても綺麗だよ!」 と、まあるい夕陽を指差して、隣を歩く君に言う。  

とても自然なことだ。  

 

うつくしい光景や状態があれば、それを誰かに伝えたくなる。

それは衝動的な性質すらある。

まるで無意識に、気が付けば「今日は気持ちのいい天気ですねえ」なんて、

そこに居る誰かに語りかけてしまったりするのだ。

 

まるでうつくしさが、ぼくに寄生して、ぼくを媒体にして、自らのうつくしさを広めようとしているみたいである。

 

ぼくはゆらゆらと操られているみたいに、誰かにうつくしさを伝えたくなる。

 

今夜の月は綺麗ですねえ。    

 

 

ぼくはそれこそが、 人が絵を描いたり、文章をしたためたりする理由だと思う。

 

 

 

 

勿論、うつくしくなくてもよいのだ。

 

恐ろしい感覚や体験、哀しい状態や出来事、そういうものがぼくの目の前にあれば、ぼくはそれらを誰かに伝えたくなる。 うつくしいもの、恐ろしく哀しいもの、すべて、ぼくは文章にしたくなる。

 

言語化のむずかしい事象があると、ぼくは絵を描きたくなる。

きっと、ピアノが弾ければピアノを弾いているのだが、生憎ぼくはピアノが弾けない。

 

ぼくは絵を描く。彫刻を創ってみたいとも思う。

 

そうしてつくられた文章や絵画は、 ぼくの家でひっそりと眠っていることができないようで、

なるべく遠く広く、多くの人々の家に拡散したいとだだをこねる。

 

ぼくはまるで、文章や絵画の召使いになって、 彼らがセカイに広まることを願い、夢を見る。

そのために努力し、時間を費やす。 そうせざるを得ない。

 

 

しかし、それがぼく自身を主体とした意思や願望なのかはわからない。

 

ぼくが絵を描いているのか、 あるいはうつくしさがぼくに絵を描かせているのか。

 

ぼくが文章を書いているのか、 事象がぼくに文章を書かせているのか。  

 

ぼくが拡散を望んでいるのか、情報が拡散を望んでいるのか。

 

 

 

ぼくには、 ほんとうの主体がどこにあって、ほんとうの意思は誰のものなのか、 それがわからない。

 

それが宇宙の法則や原理であればよいと思う。

そうしたらぼくは、このセカイのうつくしさを記述して拡散して死ぬための生命体なのである。

 

それにどんな意味があるのかはよくわからない。