理想郷は記憶の中に存在する。 ぼくはこの休日、紅葉狩りに出かけた。 赤黄色に染まる木々が風にそよぐ光景は、なるほどたしかに絶景ではあったのだが、

ぼくがほんとうに身震いするような感動をおぼえたのは、絶景を眺めているその時ではなかった。
 
紅葉の園を離れ、長い長い電車にゆられ、
東京23区に着き、硬質な灰色の都市に囲まれて、コンビニの灯りの眩しさに目を細め、
家のトビラを開き、確か足を一歩踏み入れたか、なかなか脱げない革のブーツを脱いでいる途中か、
とにかくカラダが帰宅のふるまいを演じたその時である。
 
 
それまで霧のように漠然とカラダの周囲にまとわりついていた現実世界が、
じわりじわりと、まるで身体に染み込むかのように、臨場感を失ってゆくのを感じた。
 
それは現在が過去に、現実が記憶になった瞬間の、きわめて抽象的な感覚であり、
その感覚は身震いするほどの感動を伴うものであった。
 
 
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ぼくはその時、
ぼくのカラダの中に、あのうつくしすぎる紅色を見た。
まばゆい夕陽は景色の細部を曖昧にして、彩り鮮やかな暖色の生命が、ぼくのカラダの中に理想的な紅葉の園を構築した。
 
そうか、理想郷はここにあったんだね。
 
 
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記憶はとても恣意的である。
おばちゃん達の話し声がうるさいなぁとか、すこし喉が乾いたなぁとか、足の小指がちょこっと痛いなぁとか、
そんなふうに都合の悪い記憶はすべてどこかへ消えてしまった。
ぼくの紅葉の園では、
ただただうつくしいだけの紅葉が、池の水面に影を溶かして、そのうつくしさを無限に増幅させている。
 
ぼくは水面を眺めながら、ぼんやりと思考する。
 
 一生のうちに、
どれだけのうつくしい記憶を、
どれだけの数の理想郷を捏造することができるだろうか。
 
ぼくはそこに、しあわせのための何かがあるような気がしている。
 
 
 
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日曜の夜、月曜の朝、
ぼくはとてもうつくしい夢をみた。
紅い庭園、樹々のゆらめく水面にふれると、冬色をした朝がはじまるのだった。