今朝はテレビの音で目が覚めた。
ニュースキャスターの洗濯機みたいな声色が、夢の中にゆっくり混じって回転した。
暗いニュースが日の出と共に街に降りそそぐ–––––––。
何かの唄みたいな光景がカーテンに浮かんで、私はマグリットの絵画『ゴルコンダ』(1953年)を思い出した。

 

 

 

男が小さい女の子を殺した。線路に置いて電車に轢かせた。

同じ言葉が繰り返し繰り返し繰り返され、部屋の隅々へと充満してゆくにつれて、それは食卓のコーヒーやパンのように普通のことになっていくようだった。
窓の中から見える街、街に光る星の数ほどの窓の中、そこでもまた、狂ったように同じ言葉が繰り返されているのだろうか。

犯人は想像できなかったのだろうか、少女がどのように愛されているのかを。
想像できなかったのだろうか。本当に?

 

 


映画は世界の部分の全体観をみる体験。現実にはありえない視座によって自分には見えない世界の肌触りを感じる。

 

映画を観ることは、世界の部分の全貌を見ることだ。

それは世界の全体ではないが、世界の部分の全体だ。私はそれを〈どこでもない場所〉から見る。私が映画を観るとき、私は映画の中にいる。しかし登場人物と同じ在り方で「いる」のではない。私には形がなく、映画のすべてのシーン、すべての部分にいることができる。

主人公だけに憑依するのではない。人間、動物、植物、音、衣服、コップ、建物、背景のノイズ、差し込む光…、映画によって私は色々なものに変化して、色々な視座からひとつの物語を眺める。

一本の映画の世界の中に普遍的に存在する視線––––––まるで重力や電磁気力のような存在として、私は映画に組み込まれる。

映画という〈現実世界によく似たもの〉の世界で、現実にはありえない視座を体験することで、私は現実世界をもそのような視座で体験したような気分になる。

私の人生(=世界の部分)の全体観をみることができるとしたら、それは私が死ぬ時の走馬灯の中でだけだろう。死のその瞬間まで、私の人生の出来事の意味を私はわかることができない。

だから私は映画をとおして感じようとする。この世界の、私に見えない部分のカタチが、いったいどのような肌触りをしているのかを。

 

 


これは〈想像力が劣化した人々〉と〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす存在〉の物語

 

映画『ザ・スクエア』は、〈想像力が劣化した人々〉と〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす存在〉の映画だ。

この映画は、同じ構図をした象徴的なエピソードがいくつも重ねられることで一つのテーマを追及している。多数派の〈想像力が劣化した人々〉の元に、少数派の〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす存在〉があらわれるが、前者は後者の姿を嘲笑することで問題提起を挫き、あるいは暴力的怒りによってそのあらわれを封じ込めてしまう。
この一連の構図が、映画の中で語られる様々なエピソードに共通しているのだ。

この構図は何度も何度も形を変えて映画の中で描かれる––––––。
特異的な救いが描写されることはない。同じ構図をもったエピソードが延々と繰り返されることで、映画の世界の中でその後いつまでも同じ構図が続いてゆくことを予想させる。

さらに、この映画自体が〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす〉存在になっていることで、映画内の問題は現実世界にまで拡張される。
この映画をユーモアと社会風刺と業界批判の「映画作品」としてしか受け取れない人々にとって、映画の時空はエンドロールと共に終わる。しかしこの映画と融合することができた者には、エンドロールの後においてもこの映画がそこらじゅうに分かち難く遍在しているのが視えるだろう。

〈想像力が劣化した人々〉と〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす存在〉と表現したが、いったい想像力とは何なのか?自らの論考を立体的に補強するエビデンスを示すような高度なことは今の私にはできない。なので抽象感覚的な話になってしまうが、きいてほしい。

 

 


そこにあるもの、見えているものについて考えるのは簡単だ。ではそこに《いないもの》を想像することは?

 

例えば、その絵に描かれているものについて考えることは簡単だ。誰かが発話した言葉について考えることも。しかしその絵に描かれていないもの、誰かが言葉にしないでいるものについて思慮を巡らせることはかなり難しい。

私はそこに〈いない〉ものを感知するのもひとつの想像力だと思う。

自分は何に気付いていないのか。
自分は何がみえていないのか。
自分は何を知っていないのか。

〈いない〉ものを感知することは大変難しい。
自分には見えて〈いない〉ものを存在しないものとして処理する人々のことを、私は想像力が劣化していると感じる。

 

 

冒頭の話題に戻る。
ひとりの少女の奥にどれだけの愛があるのか––––––。愛は目にみえないが、みえないからといって存在しないとして処理するのか?残酷な行為にも及ぶことができるのか?

 

しかし、想像力は〈ある/ない〉というような単純で二元的な対立の存在ではない。ゆるやかなグラデーションをもつスペクトラムなのだ。想像することができなかった人間が想像できるようになることもあれば、その逆もありうる。想像力の有無が二元的対立ではなくスペクトラムであるということは、『ザ・スクエア』でも主人公の心の揺れ幅によって暗示されている。それがこの映画におけるせめてもの希望と言えるだろう。

〈想像力が劣化した人々〉の側から脱出する方法は作中に示されている。それはもちろん、深淵よりあらわれてくる〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす存在〉に耳を傾け、共鳴することだ。

彼らはこの映画において、アーティスト/子供/類人猿/精神病者の形をしている。彼らの存在を嘲笑したりせず、怒りで封じ込めたりせず、共鳴することができれば––––––きっと私たちは何を想像できて〈いない〉のかに気付くことができる。

 


なぜ舞台はアート業界なのか

 

この映画の主人公は、最高のキャリアを誇る現代美術館のチーフキュレーター、クリスティアンだ。アートという業界にありながら〈想像力が劣化した人々〉の代表格である。

“ザ・スクエア”は〈信頼と思いやりの聖域〉です。この中では誰もが平等の権利と義務を持っています––––––

 

映画タイトルの「ザ・スクエア」は4m x 4mの四角を地面にLEDで示した作品の名前だ。その光り輝くスクエアの中にはルールがある。横断歩道のルールが “ドライバーが歩行者に気を遣う” というルールなのであれば、ザ・スクエアの中では “誰もが平等の権利と義務を持つ” この四角の中で人が困っていたら助けなければならないし、この四角の中では助けを求める権利があるという。状況を生み出す過程や関係する人々のほうに重点を置いて設計されたリレーショナルアート(『関係性の美学』1998,ニコラ・ブリオー)的な作品だ。

『ザ・スクエア』はアート業界の腐敗を描いた映画だとする声も多いが、監督は何もアート業界なんてものを描きたかったわけではないように私は思う。ただし、この社会において最も想像力が豊かであるように見られる人々がアート業界の人々なのは間違いない。そして「信頼と思いやりの聖域」などという自らの高級な人間性を誇示するかのようなテーマを平気で扱ってしまう厚顔無恥な人々であることも。その点において、アート業界の人間という設定の必然性がある。

以下にあらすじを追いながら、どんな風にして同じ構造が繰り返されているのかを説明しよう。

 


 

ある日クリスティアンは街でスマホと財布とカフスを盗まれる。スマホを追跡して突き止めた場所は、貧困層の移民が住むマンションだった。彼はそのマンションのすべての部屋のポストに「泥棒め、スマホと財布とカフスを返せ」という旨の脅迫状を差し込んでまわる…。

その夜クリスティアンがシャツを脱ぐと、カフスは袖に引っかかっていた。ここでクリスティアンの持つ偏見が示される。後日、スマホと財布は奇跡的に手付かずで返ってくる。

ある日、件のマンションに住む移民の少年がクリスティアンを訪ねてくる。
少年は、お前のせいで僕は泥棒扱いされて困っている、謝れ、とクリスティアンに迫る。クリスティアンは自身の行動がどんな影響を及ぼすのか想像できなかったのだ。

少年は何度も何度もクリスティアンの前にあらわれ、彼に謝罪を迫る。少年は純粋に正しい。しかしクリスティアンは真面に取り合わないどころか、やがてしつこい少年に対し暴力的な態度を見せ、ついには階段から突き落としてしまう。

「なぜやめなかった?しつこすぎるぞ、帰れ。」
少年の泣き声、助けを求める声がクリスティアンの住むマンション中に響き渡る。

 

クリスティアンに想像できて〈いない〉ものは何だろう?
貧困層の人々をひとくくりに潜在的犯罪者とし、彼らの生活、彼らの尊厳が想像できていない。少年がここまで切実にクリスティアンに謝罪を求める理由が見えていない。

 


 

美術館でキュレーターとアーティストによるトークショーが行われているが、その会話は単なる記号的知識、切実な実存のない、知的に見えるだけの表面的な言葉を擦り合わせるように無味乾燥な会話だ。

そんな形式的な対談がなされる中、観客のひとりのトゥレット症候群の男が複雑性音声チックの発作に襲われ、大声で卑猥な単語を叫び始める。キュレーターはゴミを見るような目つきで男を睨む。何度も何度も女性器の名を叫ぶトゥレット症候群の男に、他の観客は眉をしかめて怪訝そうにざわつき、ある者は嘲笑する。

キュレーターは「今日は素晴らしいアーティストにお越しいただいている貴重な機会であり…」などと言って制止をかけるが、この発言がそもそもこのキュレーターが作品の制作者としてアーティストを尊敬しているわけではないことを露呈させてしまっている。

トゥレット症候群の男が「俺のモノをしゃぶれ!」と叫ぶと、対談中ずっと退屈そうな仏頂面だったアーティストは「気に入ったよ!」と楽しそうな表情を見せる。

 

キュレーターには何が想像できて〈いない〉のだろうか?
何を想像できていないことに気付いて〈いない〉だろうか?
やっと楽しそうな表情を見せたアーティストは何に気付いたのだろうか?


 

クリスティアンの自宅に、離婚した妻の元から彼の2人の娘が訪ねてくる。娘たちは騒ぎたて、互いに喧嘩し、叫び、殴り合う。それをクリスティアンは暴力的な怒鳴り声によって制止するが、後に娘を抱きしめて「パパが悪いんだ」と呟く。

怒鳴り声を上げるクリスティアンは、娘にとって大人の男に罵声を浴びせられることがどれほどの恐怖なのかを想像できて〈いない〉。

 


 

有力者の集う絢爛豪華なパーティーにおいてパフォーマンスアートが行われる。
会場には熱帯雨林を彷彿とさせる環境音楽とナレーションが流れる。

「ここはジャングル。これから獰猛な野生動物があらわれます。狩猟本能は獲物の弱さが引き金なので、彼は恐怖心に敏感です。少しでも恐怖を見せれば彼の標的になるでしょう。しかしじっとしていれば隠れおおせる。獲物は他の誰かとなるでしょう……。」

会場に類人猿を模した動きのアーティスト(Oleg Kulikのオマージュだろう)があらわれ、会場は未開人を馬鹿にするかのような笑いに包まれる。

最初は類人猿風の男を嘲笑していた観客たちも、次第に過激になってゆく彼のパフォーマンスに不安を覚えはじめる。途中、クリスティアンが「彼の素晴らしいパフォーマンスに拍手を贈りましょう」という体裁によって制止をかけ、会場は拍手に包まれるが、アーティストが止まることはない。
クリスティアンは「僕は君を褒めているんだよ」と言うが、アーティストには届かない。褒められることが何の褒美になる?アーティストは暴走し、初め嘲笑していた観客は怒り、最後には暴力によって取り押さえられる…。

 

 

ここでは〈想像力が劣化した多数派の人々〉の世界観が示されている。

つまり〈アートの時空〉と〈人間社会的現実の時空〉はあくまでも別個の実在であり、〈アートの時空〉は〈人間社会的現実の時空〉に内包された特殊な時空であるという考え方だ。

だから拍手によっていつでも〈アートの時空〉なんてものは掻き消せるのだと思っている––––––

 

ではなぜアーティストはパフォーマンスをやめなかったのか?

それは彼にとってアートの時空と人間社会的現実の時空は分かち難く結びついた同一の時空上に存在しており、拍手なんてものは何の意味も持たないからだ。
パフォーマンスという言葉すらアーティストに対し失礼だ。彼は類人猿のパフォーマンスをしているのではなく、類人猿そのものになっている。

 

 

私はこのアーティストを演じたTerry Notaryの切なさがとても好きなので、よかったらこの映像も観てほしい。

 

 


 

上記に紹介したのは一部だが、作中ではこのように幾重にも幾重にも同じ構図のエピソードが登場する。

〈想像力が劣化した多数派の人々〉の元に、〈想像力の劣化に警鐘を鳴らす少数派の人々〉があらわれる。それはアートであり、アーティストであり、子供であり、類人猿であり、精神病だ。これらは互いにその存在を別々とするものではない。この世界へのあらわれの形こそ異なるが、その本質を同じくするひとかたまりの実在なのだ。

彼らの訪れを嘲笑によって挫き、暴力によって封じ込めてしまう〈想像力が劣化した人々〉の姿には辟易する。どうか気付いてくれないだろうか、誰か耳を傾けてくれないだろうかと願いながら映画を観る。しかしその願いは最後まで絶望のままに終わってしまう。

しかし冒頭にも述べたように、〈想像力がある人々〉と〈想像力がない人々〉は、ある/ないの二元的な対立ではない。ゆるやかなスペクトラムなのだ。だからこそずっと想像することのできなかった人が、何かを機に想像することができるように変わることも少ないだろうがきっとある(クリスティアンはラストシーンで、何かを想像できるようになり、そして少年に謝るために車を走らせた)。

 

 

例として最後に、私自身の体験を話そう。

 

この文章を書いている途中で、高校時代の同級生に数年ぶりに会った。彼の話の奥に、彼がいかに友人たちを永く大切にできる人間であるのかが垣間見えた。

私はというと、一時は友人を作ることができるものの、その関係性を持続させることが極端にできない。私はそれを単なる相性の問題や、相手が悪い、本当の友に出会っていない、などというように解釈していた。

彼の口から懐かしい同級生達の名が語られ、彼らが今でも友好な関係を持続させている楽しそうな様子が語られることが、私にとっての〈あらわれ〉だった。あの頃の関係性が現在も豊かな形でこの世界に残っているということ、それが可能なのだということを、卒業から10年、私は想像すらできていなかったのだ。

しかし彼の語りによってその光景が、想像が、私の中で顕在化してゆくのがわかった。私には見えない、私にはできないだけで、この世界には確かにそういうものが存在している

友情なんてくだらないと嘲笑することもできる。苛つくこともできる。しかしこの映画を観た私には、その〈あらわれ〉をそんなふうにして無碍にすることはできなかった。彼の語りに融合する形で彼らの関係性を想像し、私には見えないものの肌触りを感じた。

今まで気付いていなかった自らの対人能力の欠陥を認めることはとても苦しいが、同時に私はものすごく嬉しかった。ただ私に見えなかっただけで、この世界にはちゃんとそういうもの–––––持続的で好意的な友人関係–––––が存在しているのだということを、彼からの〈あらわれ〉を通してリアルに想像することができたからだ。

欠如した想像力に警鐘を鳴らし、自分に見えていないものの感触を教えてくれる〈あらわれ〉は、きっと今日も訪れているはずだ。

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