2018/11/24(土)

美術館で打ち合わせをした。めちゃくちゃ走ったけれど2分遅刻した。

静謐な壁に耐えうる高品質なタブロー。
最初、私は今回のプロジェクトを商品としての美しいタブロー制作への挑戦にしようと意気込んでいたはずだったが、展覧会コンセプトについての解釈を考えれば考えるほど、むしろ全く真逆の方向へと走り出し、気が付けばその辺の汚れた空箱や破れた紙片にドローイングを試していた。これが言葉の両義性ってやつ?

今度の展覧会では、ギリシア神話を主題としたとある絵画へのオマージュを献げる。

17世紀に描かれたものだ。主題は英雄アキレウスにまつわる緊張の場面だが、その構図も、説明的な演出も、照明のゆきとどいた色合いも、人物の表情や弛緩した筋肉の様子も、すべてが演劇じみて見えるというのが第一印象だ。

私は訝る。この画家は実際の戦争の場面へ肉薄しようと筆を持ったのではなく、「これは演者によって演じられたアキレウスの場面です」ということを強調してすらいるのではなかろうか。だとすればそれは何故だろう?神話に実際の場面も何も無いが…神それ自体を描こうとすることへの畏れ?

▶︎問1 どうしてこんなに偽物らしく描かれているのか?

まるで人間による演劇を描いたかのような神話の絵画から、私はアキレウスの主題よりもむしろその絵画を見つめる人間の眼差しのほうを強く感じる。古代の神話を見つめる17世紀の眼差しを見つめる21世紀の私の眼差し———。
これが今回の私の作品のテーマになることは間違いない。

 


2018/11/25(日)

高校生の頃(ぴったり10年前だ!)私がゴヤやカラヴァッジョや、靉光や鴨居玲や石田徹也などの画集を好んで見ていた頃は、たしかに絵画を見つめるということはとりもなおさず自分自身を必死に見つめようとすることだった。自分を探すことは世界を探すことだと勘付いてからは、もう少しコンセプチュアルな作品も楽しめるようになった。

古代ギリシアの人間を眼差す17世紀の人間を眼差す21世紀の人間———それは17世紀の《世界探し》に憑依することだ。私が世界と呼ぶそれを彼らは神と呼んでいただろう。彼らが折に触れて古代ギリシアに立ち返るように、私も過去の人類に立ち返ることに挑戦してみよう。

この作品制作は外見上、過去への旅になるだろう。
過去への旅ではあるが、しかし、過去は同時に未来でもあり、未来は同時に過去でもある。時間は高次元のトーラス体のような構造か、あるいは全体をして自己相似形をしている(ような気がする)。4次元時空から観測しようとすれば時間は直線的に体感されるかもしれない。しかし私達には、他次元の時空から世界を想像する能力があるはずだ。

要するに、過去の外見をしたものが即ち過去であるわけではないと言いたい。

17世紀の視線に揺られて古代ギリシアへ……って、実際にどうすればいいのかなんて全然わかっていない。今はとりあえず情報を入れまくるしかない。それらは緩く繋がって、必ずや編みもののごとき構造物となって私の腕から流れ出る。その流れの存続を疑いなく信じられることだけが私の取り柄だ。(てか編み物ってめちゃくちゃいいかも)

期限がある以上、まず情報収集の支点を絞る必要があるだろう。
しかし支点(支柱)を事前に決定する、ということには疑念を抱かざるをえない。
あらかじめ存在する骨格に内臓を組み込み皮膚を貼りつけて人間が完成するわけではないように、(生物的)作品の支柱を事前に形成することはあまりにも不自然だ。
しかしそろそろ作品の設計をはじめなければならない。

とにかく17世紀に起こったパラダイムシフトの概要を掴みたいと思ったが、そう簡単にいくわけがない。エルヴェ・バロー著『エピステモロジー』は、いかに古代ギリシアの科学が17世紀ヨーロッパ科学(機械論)の霊感の源になっているのかを少し実感させてくれた。私に理解できるか否かは棚に上げ、17世紀の主要な人物のいくつかの書物に目を通した。ホッブズ、デカルト、スピノザ、パスカル、ライプニッツ。もはや勘で選ぶしかないほど勉強不足な自分が憎い。取り敢えずはデカルトの〈炉部屋の思索〉のイメージを中心として材料を集めてゆくことに決めた。

デカルトなんて読んだこともなかった。
この3週間は『方法序説』と『省察』を読み、解説本として谷川多佳子著『デカルト「方法序説」を読む』と、田中仁彦著『デカルトの旅/デカルトの夢』を読んでみた。特に『デカルトの旅/デカルトの夢』はデカルトの思想そのものについてではなく、〈炉部屋の思索〉に表れるようなデカルトの精神の歩みそれ自体を追体験するという点において、今回かなり役に立つ予感がする。資料の中心に据えることにする。

 

「デカルト以前は人々は気楽にものを考えていた。この人を持たなかった過去の時代は幸せだったと言わねばなるまい……思うに彼こそは新しい思考の方法をもたらした人であり、この方法は、彼が教える規則そのものに照らしてさえ大部分誤りであるか、あるいは極めて不確実である彼の学問そのものよりも、はるかに大きな価値を持っているのである」
(ベルナール・フォントネル『古代人と近代人に関する雑談』1688年)

(中略)デカルトの名を不朽たらしめたのは、フォントネルの言うとおり、「大部分誤りである」ような彼の学問そのものでなく、その根底をなす「方法」であった。

(中略)『方法についての序説』とはいっても、実は、それを使えばたちまち真理が発見できるというような便利な秘法がそこに書かれているわけではない。そこにはただデカルト自身の精神の歩みが語られているだけなのである。「方法」とは結局、彼のこの精神の歩みが示している具体的な思考の過程に他ならない。デカルトは一段と高い所からありがたい「方法」———それはしいて言うならば数学的方法であるが———を説いているのではなく、彼自身の思考の軌跡を率直に語ることによって、みんなにも考えてもらい、判断してもらうことを望んでいるだけなのである。
彼がこう期待しているのは、ただし、学者たちではない。学者用語のラテン語でなく俗語のフランス語で書かれたこの書物が呼びかけているのは、学者ではなく、普通の一般の人たちなのだ。既成の知識をいっぱい詰め込み、本当の意味での考えることを忘れてしまった学者たちはもはや救いようはない。デカルトが期待していたのは、形骸化した知識や権威主義によって生まれながらの良識をまだ曇らされていない人たちなのである。
(田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢』)

学校で教えられた(ルネサンス人文主義的な)書物による学問に失望した若きデカルトは、自分自身の中か、あるいは世界という大きな書物の中で学び直そうと旅に出る。

世界という大きな書物、この世界———恋焦がれるのはそれだけだ。
いままで数多の人間が各々の方法で世界に触れようとし、世界を撫でようとし、世界にくちづけをしようとした。それらは書物や絵画や音楽や演劇や、あるいは数学や天文学や物理学や生物学や量子力学や(というように分類する必要はないと思うが)、ありとあらゆる様相を呈してこの世に立ち現れては消えていったり継承されたりしている。

私も彼らと同じ相手に恋い焦がれているのだ。
この世界に触れようとし、撫でようとし、くちづけをしようとする、その精神の歩みのすべてが私にとっての〈制作〉だ。
ゆえに日記を制作に含み公開することにしたのだ。

私にとって制作とは、とりもなおさず世界を視ようとすることだ。
決して内部表現を外在化させる試み(自己表現)などではない。優れた作品は本当の意味で作者に帰属しないはずだ。

物理空間上、私はこの2つの眼球、1200gの脳から離脱することはできない。
この肉体から視えるだけの一面的な〈世界〉、私はその世界の姿に耐えられない。もっと知りたい。生まれた時から好きだからだ。私は他者に憑依したい。彼らの視線を借りたい。より多くの他者からこの世界を眼差したい。

夜、椎名林檎のLIVEに行った。女王の風格。文句なしにかっこいい。

 


2018/11/26(月)

アリストテレスの『詩学』を読んでみた。
人はどうして物語を作り、絵を描き、音楽を奏でるのだろうという普遍的な疑問。
第4章『詩作の起源とその発展について』にはこうある。

 

一般に二つの原因が詩作を生み、
しかもその原因のいずれもが人間の本性に根ざしているように思われる。

(1) まず、再現(模倣)することは、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間は、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で、他の動物と異なる。

(2) つぎに、すべての者が再現されたものをよろこぶことも、人間にそなわった自然な傾向である。このことは経験によって証明される。なぜならわたしたちは、もっとも下等な動物や人間の死体の形状のように、その実物を見るのは苦痛であっても、それらをきわめて正確に描いた絵であれば、これを見るのをよろこぶからである。(中略)人が絵を見て感じるよろこびは、絵を見ると同時に「これはかのものである」というふうに、描かれている個々のものが何であるかを学んだり、推論したりすることから生じる。人が実物を以前に見たことがない場合、絵がよろこびをあたえるとすれば、それは、絵が再現であるからではなく、仕上げの巧みさ、色彩、あるいはこれに類する他の原因によるものであろう。

 

再現によってものを学ぶのが人間だけというのは眉唾だが、この(1)からはミラーニューロンや鏡像段階を連想するし、人間にそなわった自然な傾向(構造的なもの)であると感じることに異論はない。でも(2)はどうだろう?描かれている個々の物、表象されたものが何であるかを推論することからよろこびが生じる、ほんとうにそうだろうか。

▶︎問2 何も表象しようとしていない花を見る時と、花を表象しようとしている絵画を見る時に生じるよろこびの違いは?
→予期される未来に差があるとして、それはどんな効果を齎すだろう?

私は毎日10回くらい、皆がとっくにわかりきっているであろうこともわからない自分に苛々している。

そういえば先週の木曜に観た田中泯さんの公演、あの素晴らしい踊りについての書きかけの感想文がずっと気がかりだ。うまく進まない。文がどんどん分裂して———それについて語ろうとする文章が分裂してしまうということが、まさにあの踊りなのかもしれないが。

 


2018/11/27(火)

今日はかなり久しぶりに太陽のみえる時間の散歩をして衝撃を受けた。
いつのまにか赤くなった植物がすでに落葉していたこと、踏むと小気味のよい乾燥した音がざわめくように聴こえること。私は自分のことを精神的色盲だなんて思っていたけれど、それは夜にばかり歩いているからかもしれない。
夜の都市に目立つのは、せいぜい赤いテールランプや赤色灯だ。

あなたはアートを使って(社会に対して)何がしたいのですか?
あなたのアートには(社会にとって)どんな意味があるのですか?と質問される。

作品にどんな意味があるのかを事前に明示することは構造的に不可能だと私は思う。
私の作品が他者に眼差される。他者に眼差された時になってはじめて、私の作品はその他者の中に意味として(あるいは意味を伴った感情として)喚起されるのだ。その喚起の強度も意味の内容も、すべてはその他者のそれまでの経験に由来を持つ。だから作者の私は事前に作品の意味を明示できないし、私の作品の意味は私に帰属しないのだ。
私にとって超超超超重要大作品である草間彌生の白いソフトスカルプチュアが、他の人にとってそうでもないのはちょっと悲しいけど仕方のないことだ。
だからこそ他者に眼差されることによって作品が良くなるという側面がある。他者の中に喚起された意味が、私をさらに駆り立てることになる。だから他者に見られることを欲する。
……なんて説明はここではナンセンスだろう。
明快で重要な雰囲気を漂わせる意味(のようなもの)を捏造しなきゃいけないこともわかっている。この作業は作品の全体像が見えてきてからでいい。

アリストテレス『詩学』もう一度読む。岩波文庫版の豊富な訳注に助けられる。
時の洗礼を受けてなお残る書物はすさまじい。言葉の用法を理解するのがむずかしい。

以下、『詩学』より訳注から引用。

 

▶︎ミメーシス(mimeēsis)について
プラトンはこの語を彼の哲学についても用いたが、それを文芸について用いるときは模倣、模写の面を強調し、芸術的模倣、模写によってつくられた感覚像は物事の本質をあらわすことができないと考えた(『国家』)。これにたいしアリストテレスは、『詩学』において、ミーメーシスという語をより積極的な意味で使用している、すなわち詩は、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされる行為のミーメーシスを通じて、普遍的なことを目指すことができる(ミメーシスの対象である行為が「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」なされるというのは、行為のミメーシス、すなわち筋(ミュートス)が「ありそうなこと」と「必然的なこと」の原理、内的統一の原理に基づいて組み立てられることを含意する)。詩は、普遍的なこと、起こる可能性のあることを語るゆえに、個別的なこと、実際に起こったことを語る歴史にくらべて、より哲学的であり、より深い意義をもつものである(九章)。またそれは過去、現在のこと、人々がそうであると語ったり考えたりすることのみならず、そうあるべきことも描くことができる(二十五章)
アリストテレスにとってミメーシスの基準は、事物が模倣・模写されているかという点だけにあるのではない。
(岩波文庫版 アリストテレス『詩学』第一章訳注)

▶︎ミュートス(mythos)について
アリストテレスは、この語を一般的な意味(物語、フィクション、伝説、神話)で使用しているほか、さらにこの意味を深める形で、「(もろもろの)出来事の組み立て」(六章)すなわち、(物語などの)構造とその原理という彼独自の意味で用いている。
アリストテレスのいう筋は、悲劇の目的(テロス)であり原理(アルケー)である、つまり悲劇にその形態(構造)を与えるものである。それは(完結した一つの)行為の再現(ミメーシス)であって、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で生じる、不幸から幸福への変転(メタバシス)を含むものである。筋の要素としては、認知(アナグノーリシス)、逆転(ペリぺテイア)、苦難(パトス)があげられる。
(岩波文庫版 アリストテレス『詩学』第一章訳注)

▶︎「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」について
kata to eikos ē to anankaion の訳。エイコスは「ありそうなこと、蓋然的なこと」アナンカイオンは「必ずそうでなければならぬこと、必然的なこと」を意味する。
エイコスは『弁論術』では「(ほかでもありうるものについて)ほとんどの場合そうなること」といわれる。アリストテレスによれば、筋(ミュートス)は、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方でなされる行為を再現するものでなければならない。エイコスとアナンカイオンは、対で用いられるところからもうかがえるように、再現された行為に求められる緊密な因果関係、すなわち論理的一貫性をあらわすと考えられる。
エイコスは『弁論術』においても取りあげられるが、そこでは聴衆を説得することに重点がおかれるため、聴衆にとって「もっともらしいこと」「いかにももっともだと思われること」という意味が強く出てくることになる。これにたいし『詩学』においてアナンカイオンと対で用いられるエイコスは、詩の内容である行為の因果関係(内的統一)に重点がおかれる点において、『弁論術』でいわれるエイコスとは異なることに留意する必要がある。
アリストテレスのいうあわれみとおそれの感情は観客に生じるものであるが、しかしそれは作品の内的統一そのものによってもたらされる効果でなければならない(したがって悲劇の実際の上演を見なくても、作品を読むだけで悲劇の機能は働くといわれる)
(岩波文庫版 アリストテレス『詩学』第七章訳注)

作品が他者に眼差されてはじめて他者の内部に意味が生じ、それが転じて作品の意味となり、私の制作の意味になるので、最初に私が制作する時点では意味は不可知だとかって感覚で思ってたけど、
その他者に生じる意味を(悲劇あるいは喜劇へと)コントロールする(形態・構造を与える)のが「ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で」設計されたミュートスであり、ミュートスが「ありそうな〜」すなわち蓋然的・必然的に設計されている場合にのみ(強力な)ミメーシスが生じるということならば、まず私はこのミュートスの方法を学ばなければならないのかもしれない。
作品の構造が蓋然的・必然的であるかどうか、てか蓋然性って何?蓋然性が確率になったのも17世紀だってことだけは何となく知ってるけど、あとは何もかもわからない。

レイトショーに行った。『search』という映画だ。
すべての劇はフラットなPCの画面上で進行してゆく。


2018/11/28(水)

公園へ。
公園の池で釣りをしている男に「何が釣れるんですか」と話しかけると、男はバケツの中を覗かせてくれた。そこには首の無いブルーギルが10匹ほど横になって浮かんでいた。

「誰かがブルーギルを放したせいで大繁殖してしまったんだよ。だから殺してるんだ。」

私はその男に〈ブルーギルの処刑人〉という渾名をつけた。
まるでデヴィッド・リンチの映画みたいだ。首のないブルーギルを見た瞬間、私の鼓膜にはリンチ独特の不穏なノイズが聴こえるような気さえした。
男は親指で引きちぎったブルーギルの頭部を、石の上で日向ぼっこする2匹の亀の方へ「ほら、食べな」と優しく投げた。亀はそれを完全に無視した。

今日は何も進まない。低気圧の関係か。
日曜に偶然出てきたアイデアのひとつ、編み物が依然として気になる。
黒い糸を使い、日常様々なものを編み込んでゆくようなイメージだ。
塩田千春っぽいけど、私のイメージはどちらかというとサラ・サイズ(Sarah Sze)に近い。最近は彼女の作品がめちゃくちゃ好きだ。

今日までゾウムシのことが好きだった。
けれど新たに知ってしまった。ヨツモンマメゾウムシのオスのペニスは鋭い棘で覆われていて、交尾することでメスの生殖器の内壁をズタズタに傷付け、メスの寿命を縮める猛毒が含まれた精液を放出するらしい。最低、酷すぎる。ゾウムシのことをちょっと嫌いになってしまった。

深夜の公園のブランコ。スローモーションで葉が落ちる。

“Walking days – 制作日記2018.11.24-11.28” への5件のコメント

  1. 結局、17世紀ヨーロッパ世界を理解するには、古代ローマ時代の芸術、文化を理解するのが近道かと思う。ルネサンスでの回帰は、滅びてしまった偉大な文明の時代への「憧れ」なのだっから。

  2. アリストテレスの詩学を読みました。ある程度の先入観がありますが、アリストテレスは詩の才能がプラトン程はないという言葉を実感しました。アリストテレスの書いているのは、感じるのではなく、技術によって表現するように思います。そして、ヨーロッパ中世はアリストテレスの学問が支配的です。本質を掴む直感より、上手く表現するだけの世界ではという感じです。貴女が感じたものに一つの切り口になるなれば幸です。

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