深夜のコンビニに入ると、店中に怒鳴り声がひびいていた。
500mlのサワーを掴んでレジに向かうと、50代の男性店員が若い外国人店員を壁に追い詰め、罵詈雑言を浴びせているところだった。外国人店員はほとんど泣きそうな顔で硬直していた。矢継ぎ早に罵声が飛ぶ。
お前は本当にバカだ。お前は役立たずだ。お前は本当に仕事ができねえな。お前さ、死ねよ、本当に、死ね、死ね———
私がレジに500mlの缶を置くと、50代の男性店員は表情を作り変えながら私の元へやってきて、完璧な声色で手際よく会計を済ませた。彼のプライドのすべてがその瞬間に凝縮していることがよくわかる、非の打ちどころのない接客だった。
この人はかなり間違っている。恐喝の現場を目撃されることには頓着がなく、文字どおりの接客——私と会話で接しているその瞬間、その15秒が完璧に済まされればよいのだ、と思っている。ものすごくおそろしい人を見てしまったと思った。そこで泣きそうになっている青年がかわいそうで、何かしたいと思った。何かを言うか…
「あのう、失礼ですがもうすこし優しい言い方をされたほうが、頑張ろうって気力も湧いてくるんじゃないかな」もし私がこう言えばどうなるだろうか。おそらく50代の彼は恥をかかされたと感じるだろう。そして私が去った後、彼の恥は怒りとなって、ふたたびかわいそうな青年に差し向けられるんじゃなかろうか。
私は結局、かわいそうな青年に向けて「同情するよ」という困った表情をおおげさにつくり、コンビニを後にした。やりきれない不全感で嫌な気分だ。攻撃的な衝動にも駆られる。やっぱり引き返して、私が青年の代わりに何か仕返しをしてやれないだろうか……しかし状況はそんなに単純ではない。あの技能実習生の青年はコンビニを解雇されるわけにはいかないだろうし、あのおじさんの罵倒癖がそう簡単に治るわけもないだろう。
私はどうすればいいのだろうか。ラジオで聞いた方法を知ってる。毎日青年に声をかけて親しくなり、本格的に困っているようであれば、技能実習生の支援団体を調べて紹介する。その方法をためしてみるべきなのだろうか。状況に居合わせた者の責務があるとは思う。けれどどんなふるまいが適切なのかよくわからない。支援団体や監理団体をGoogleで検索してみたけれど、その団体が正当に機能しているのかはよくわからない。そもそもあの怒鳴り散らしている男がどのような人間なのか、私にはあの瞬間のことだけで、他は何も見えていない。
きれいなことを言いたいわけじゃないが、青年の傷ついた顔を目の前で見たにもかかわらず、何かをすることができないと私は感じている。そう感じるのは人間としてあまりにも不自然だ。けれどそう感じてしまう。私は何によって「何もできない」と感じさせられているんだろうか。
社会構造の複雑さを想像してしまう。意図をもって発せられた自分の言葉や行動が、実際にはどのように作用するか予測できないと感じる。目の前の男の子を泣きやませたくてとった言動が、めぐりめぐって、もっとひどく泣かせることに繋がるんじゃないかと思ってしまう。複雑性を前にして寡黙になってしまう。
私は彼について、何をしようかと計画を立てることができなそうだ。とりあえず顔を見に行くくらいしか思いつかない。もし怒鳴り声が酷ければ警察に通報しようか。上司が声を荒げなくなれば、精神的打撃はほんの少しでも軽くなるだろうか。それとも怒鳴れないストレスが、もっと陰湿な暴力手段に変化するんだろうか。
どうして社会はこんなに機能不全に陥っているのだろうか。社会が複雑で嫌になる。悪い予測不可能性によって、何か行為したいという気分を大きく削がれる。なーにがソーシャリー・エンゲージド・アートだ、くだらねえ!やるせなさが頭の中で変な方向に飛び火する。
怒鳴られ、罵倒されている人を見かけると、本当はあれが私だといつも思う。
なにかとてつもない偶然の幸運によって、いまの私は罵倒される立場を回避しているが、ほんとうはああやって罵倒されている人こそが私だと思う。
かといって、
無様に唾を飛ばして罵詈雑言を発しているあの人、あの人こそが私だ、とも思う。
私はたんなる偶然の幸運によって、この現在、人を罵倒する必要のない精神的な充足を得ている。しかしそれは私の努力によるものでもなければ、状況理解力の高さとか、人格の成熟度によるものでもないと思う。ただ単に、膨大な偶然の帰結だ。
大人になっても怒鳴り声をあげるような人間を、どうしようもなく馬鹿だなあとも思うけれど、彼自体のせいではないとも思う。誰がギルティなのかという見方を単純には採用できない。ただただ嫌な感じだけが残る。
写真はタイのコンビニで撮ったもの。
(noteから移管した記事です)