■2023/01/31(火)
やっと、まあ日記を書いてもいいか、という気分になってきた。
約3ヶ月止まっていたが、そのくらい大した期間でもないだろう。
3ヶ月あれば、とある植物は辺り一面を埋め尽くすほど繁殖するし、しかし他のとある植物は待てど暮らせど発根すらしないものだ。じゃあ、繁殖しまくる植物のほうがたくさん仕事をしているのかと言うと、そう言いきれるわけでもないよなあ。なかなか根を出さない種子の内部で、ものすごい変革的な大仕事が起こっているのかもしれないし、何事も断じられるものじゃあない。そう言ってぼくは自分を責めずに飄々としているのだが、まあ、表に見える変化を起こしていない期間に胸を張るための、ていのいい言い訳である。
* * *
さて、どこで見かけたのかも忘れてしまった、ふんわりした曖昧な記憶をそのまま無責任に書き連ねるが、「長期間のあいだ自己同一性を保つ能力の高い人物であるほど出世し、生涯収入が高い」というような記事を先ほど読んだ。まあそりゃあ当然のことだろう。とおい将来の自分を今現在の自分自身と同一視して、今の自分の持続的成長を確信して生きていけるんなら、そんなにも貨幣経済と相性抜群なパーソナリティはない。
ぼくはだめだ。明日の自分が何を考えているのかもまったくわからない。いまこの瞬間にぼくの生きるすべてだと思えるような存在が、半年後には粉々の塵になって何にも無くなって、そういうことだって確実にあるんだ。
感情の魚市に…、ぼくの活気あふれる感情の市場に、いまこんなにも騒がしく溢れ返っている愛情や悲しみや怒りの鮮魚が、一年後には大不漁で、閑古鳥が鳴いていて、死骸の匂いの染みた木箱に、黴が生えてくすんだ幟。そういうことだってざらにあるんだ。自己が同一であるものか。明日のぼくが今日のぼくと同じなものか。今夜眠りについて、明日ちゃんと目を覚ますかもわからないのに、のうのうと人生を計画できるもんか。
■2022/12/26(月)
この2ヶ月、ぼくのUlyssesには着々と怪文書が溜まっていった。
ちなみにUlyssesとは、文章を管理するのに最高のアプリケーションである。
たとえば11月27日の時点では「やるべき為事に追われていたことと、重大な出来事がありすぎて、しばらくのあいだ日記を書けなかった。」と書かれているが、やるべき仕事とは一体何だったのか、思い出せる気配がまったくない。27日時点での重大な出来事とは?そんなものあったか?よくわからない。カレンダーを遡ると、どうやら先月は展覧会が2つあったようで、そのこともほとんどわからないというか、何だか10年前の記憶のようにも感じられる。
この期間にあった重大な感覚の発見、世界がひっくり返るほどのいくつかの新たな心情も、指のあいだからこぼれる砂のように砂浜にかえってしまった。つまり、ぼくは色々な感覚や大きな気持ちを、新しく感じては次々と忘れていった。何を感じて何を考えたのか、海底から吹き出たガスが、海を散々かきまわして、やがて海面からどこかへ消えていったのだ。まあそれでいい。まあ何でもいい。
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ぼくが日記をやりたいとおもったのは、記録することに主眼があるのではなく、書いている最中の、散文言語に特権的な地位が与えられている状態の中にいる感覚をあじわうことにあるんだとおもう。わからんが。日記としての形式じゃないが、紙に支離滅裂な文言を書いたりはしていて、ぼくはむしろそっちの行為にハマっていた。
紙に手書きのおもしろさを再確認した。キーボードを打鍵する速度は、思考の速度と並走したり、たまには超えてしまうことがあって、それは何というかキーボード出身の文章になる。ぼくの場合、iPhoneのフリップ入力なんてキーボードよりもっと速い。
ところが紙に手書きすると、文章の錬成速度があまりにものろまで、それによって生まれる妙な文の匂いがある。思考が手の100キロ先を走っているから、文章にまとまりがなくなって、時空間を飛ばしながらスキップしている感覚になる。かなり楽しいとおもった。文章の錬成される速度が遅くなるだけで、こんなに楽しい匂いが文に染みつくのか。
日記をつけていなかったこの1ヶ月間にあった出来事はもう消えたので書き起こせないが、生活上の奇妙な変化として、まずぼくはエリック・サティのグノシエンヌ第1番を思ったように弾くべく練習していたんだ。中古の鍵盤を買おうとしたが、周りの人々から「ぜったい飽きて邪魔になるからやめておけ」と釘を刺されて、だからとりあえずはエアーピアノで毎日練習している。ちなみにぼくはピアノなんて弾けないのだが。
■2022/11/07(月)
足りなくなったカンバスを買いに渋谷へ。
昨日からエリック・サティを聴いているが、いいアルバムを見つけた。
Ky(仲野麻紀&ヤン・ピタール)というユニットで、プログレアラブというのかJAZZというのか、とにかく東洋的な解釈のサティが聴ける。ぐわんぐわんと揺らぐようなグノシエンヌが最高だ。夕暮れの海辺でこれを聴きたい。
■2022/11/08(火)
何枚かのカンバスの下塗りをした。
今日は皆既月食。
完全な蝕にはいった、赤い満月を双眼鏡で見あげると、顕微鏡で拡大された卵子にそっくりだった。卵子を実際に見たことはないから、これはすべて私の妄想なのだが、とにかくこれは卵子なのだと確信した。
なんだか寒くなってしまった夜の屋上に立って、風がすこし吹いて、ごおごおと車の走行音が聴こえているのに、まるで暗い胎内のようだった。よくわからないが、あの赤い球を目指すのだ、という感じがした。
月のことがわからない時代に生まれたらよかったかもしれない。あれが巨大な岩の塊、巨大な衛星だということもわからなければ、こわがりの私はもっとあれを恐れている。あれに見つからないよう必死で屋根のしたに隠れただろう。ああきっとそして、私があれを恐れてぶるぶる震え上がるその一方で、あの月の正体に挑む人々がいるのだろう。私はそれを深く恥いる。人間はすごいよな。
■2022/11/09(水)
作品制作。その他の記憶なし。
■2022/11/10(木)
友人Nと表参道へ。
イッタラのカルティオというグラスが欲しくて、買い物につきあってもらった。クランベリーカラーのグラス。ぼくの好きな血液の色だ。生産ロットによって色に差異があるらしいが、なるべく濃く暗いものをえらんだ。最高だ!
ラフォーレを上から下まで見てまわったが、どうやらぼくはもうラフォーレに心動かなくなってしまったらしい。琴線に触れるものが何もなかった。デザインに惹かれる季節が終わり、素材感というか、歴史感というか、年季というか、物体としての存在感に惹かれる季節に入ってしまったのだ。
■2022/11/12(土)
明日、宮古島への航空券とホテルを予約していることを完全に忘れていた。いつ予約したんだっけ。あわてて旅支度をする。とにかく朝起きる自信が全くない。目覚めのアラームに起こされた後、起きねばならない理由を思い出せる自信がない。なぜ起こされようとしているのかを、うまく理解できるだろうか。
■2022/11/13(日)
宮古島へ。どうにか早起きに成功した。
飛行機に乗るのが怖すぎて睡眠薬を飲んだ。
夜、雲ひとつない晴天で、星がよく見えた。あんなにはっきりとプレアデス星団を肉眼で捉えたのは初めてだった。
■2022/11/16(水)
夜、宮古島から帰還。
■2022/11/17(木)
作品の仕上げ。
■2022/11/18(金)
作品の最終チェック。
■2022/11/19(土)
作品の最終チェック。博多の阪急百貨店で開催されるアートフェアへ作品を発送。
■2022/11/23(水)
香港から数年ぶりに遊びにきた友人の東京案内をした。新宿から秋葉原。社会通念に則った言動をしなければな、と自制しないですむ数少ない友人なので、一緒にいてかなり気分がよかった。
■2022/11/24(木)
銀座の阪急メンズ東京でのグループ展が終わり、搬出作業。
赤帽のお爺さんと親しくなっていくのを楽しみにしている。
■2022/11/27(日)
この20日間、やるべき為事に追われていたことと、重大な出来事がありすぎて、しばらくのあいだ日記を書けなかった。文章をほとんど書いていないし読んでもいない。
コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』を時折ひらいて読んではいたが、ほとんど進まなかった。ぼんやりして、悪い頭がさらに悪くなってしまったような感覚がある。
時間的な余裕が全くなかったわけではないが、頭の中の作業台が散らかりすぎて、ゴミ屋敷に呆然と座りこんでいる気分だった。いついかなる状況でも、ゴミ屋敷の中でもかまわず集中できてしまうような天才的な人間にあこがれる。ぼくは極端に気が散りやすく、繊細で、とにかく机の上が整っていないとだめなんだ。
比喩ではないほうの机の上、作業台の上に、何かひとつでも異物が載っているとだめだ。わずかに風が吹いていないとだめだし、視界に目立つ色のものが入るとだめだ。ペットボトルのラベルに強い色をつかわないでほしい。いやいいんだ。ぼくの方でそれを剥がせばいいんだから。あたまがばらばらになりそうだ。情報が強すぎて混乱する。