• Reading time:2 mins read
  • 投稿者:
You are currently viewing 余白のすくない迷路・飛び地のひらめき

小学生のころ、授業中、よく学校のノートに迷路を描いていた。
はじめは大胆なスタートを切った迷路も、じわじわとノートが埋められていくうちに描き込める余白を失い、肩身のせまい退屈な道程になってゆく。終盤に差し掛かりどのようなゴールを設けるか考えるのだが、限られた行き場の中ではあまりダイナミックなゴール像も描けない。動きを制限され、身動きが取れなくなってゆく。

紙がまっさらに白く、何もないうちがいちばん楽しい。
行き場が限られてくると窮屈さを感じる。窮屈さの中で、人は退屈をかんじる。ぼくのノートの迷路はいつも未完成ばかりだった。


ものを考えるときにはいつも文章に書き出していたが、ここ3ヶ月それをやめていた。考えごとをするときは脳内だけで行う。そんなには不便じゃなかった。

文章を書く行為が呼び水となってこそアイデアが浮かんでいると思い込んでいたが、それはたぶん間違っていた。なにも文章を書かなくたって、日常のあらゆる行為の最中にアイデアはポンと無秩序に浮かんでいる。むしろ机に向かったタイピングに固執することで、無為に時間を食っていることにも気がついた。

ぼくはその、いつも無秩序にポンと思いつく飛び地のひらめきみたいなものを、毎度それまで書いていた文章の連続上に組み込もうと画策していた。だから時間がかかる。文脈上の違和感がないように、まるで論理的な道すじがあるかのように道理を捏造しようというわけだ。そしてしばらくすると飽きて放り出す。

なぜ飽きるのか。
まず、ポンと生じる飛び地のひらめきは、因果関係の外側から不意にやってくるのであって、そもそもそれまで書いてきた文脈に説明的に接続できる性質のものじゃない。けれどぼくとしては感覚的・換喩的にすべては繋がっているから、その繋がっている感じを示したい。でもその「なんとなく繋がってる感」は順序立てて説明しないと他人に決して伝わらないだろう。だから無理くり説明的な道すじを書こうとして、なかなか解けそうもないパズルからやがてリタイアしてしまう。

ほんとうは脈絡なくポンと浮かんだアイデアのくせに、まるでそれが論理的に導かれた解答であるかのように粉飾したがるクセがぼくにはある。記憶を辿るとぼくは、尤もらしい論理的・説得的な理由をいつも後付けで捏造してきた。それがなければ他人に受け入れてもらえないのだという思い込みがあった。ぼくはあらゆる場面でその退屈な「理由の捏造」にこだわって時間を食われ、無為にエネルギーを消費してきた。


ぼくとしてはこれが、冒頭の迷路の話につながってくるように思う。
文章を書いていてポンとひらめいた着地点(ゴール)が見えてくると、ぼくはあの小学生の時分、迷路を描いていてノートの余白が残り少なくなった時とまったく同じ感覚になるのだ。

現状から着地点までをつなげる道程をかんがえるわけだけど、ここまで描いてきた線、書いてきた文脈が突然、ただ余白の自由さを狭めるだけの障害物に思えてくる。過去こそが現在の行動を制限する法の番人に感じられて、とにかく窮屈で仕方がない。そんな感覚に閉じ込められるのだ。

枠の存在感、有限性を強烈に感じはじめると、何もかもがうまくいかなくなる。急激に気力を失い、興を失う。それがぼくのわるいクセだ。枠があるほうがやりやすいとか、目標を立てて動くのが好きな人もいるんだろうけど、ぼくはその真逆。ぼくみたいな人もきっとめちゃくちゃたくさんいるだろう。

生活も絵画も人間関係も何もかもすべてはつながっていて、そこにあるクセも悩みも共通の構造をしている。人のクセとは興味深い。たまたま見えたのがひとつの些細なクセであっても、その人の行動や人格や思考、ともかく人生のあらゆる全体に「表出のかたちは異なるが、同じ構造をしたクセ」が散らばっているものだ。


たとえば同じクセが、絵を描いているときにはこう現れる。
うまくいく作品は、とにかく最後まで興が乗りつづける。自由という言葉を使ってしまうと単純すぎるが、なんというか、残数や面積の制約なしにレゴブロックで遊んでいるようなかんじがある。カンバスの残り面積がどんなに狭くなってきても、そこからどのようにでもできるという実感が最後の最後までありつづけるのだ。

そして大抵、これで完成!という実感を伴うことのないまま、中断する気分でひとまず終了となる。逆に言えば、うまくいった絵はどこで中断しても完成であり、どこで中断したとしても表現したかったことが表現できている。フラクタル的な、曼荼羅的な構造がつねに保持されている。これがぼくにとってのいい状態、最高の理想なのだ。

一方途中で醒めてしまう作品は、手を動かすたび、線を重ねるたびにそれが邪魔な過去となり、制限されている感が重なってゆき、何とも言えない狭くるしさをかんじる。ぼくは絵を描く退屈に喘ぐ。描き損じることが絵の失敗というより、ぼくの場合は、そういう「描きながら狭さを感じる」ことこそが失敗だ。本当にがっかりしてしまう。

失敗の発現条件はまだよくわかっていない。カンバスに描かれてきたものに原因があるというより、たぶんぼくの肉体や精神、生活、環境のほうに原因がある。

べつに常にうまくいきたいわけじゃないんだけど、自分の心を自在に操れたらどんなにラクだろうかとぼくは思う。まあもっとも、そんなふうに気分よく操られた心で生きる世界に、表現したくなるような光景があるとは思えないのだが。

コメントを残す