母さんへ

母さんへ

6月 18, 2022

母の母を看取る母の姿を私は遠巻きに見ていた。祖父が死んで、祖父母が住んでいた三鷹の都営住宅を引き払ってから、もうかなりの年月が経っていたと思う。 母の母、すなおに祖母と書けばいいのだけれど、どちらかというと私は母の母として祖母のことを見ていた。だから母がそのまた母の最期に関与する様子を、雛鳥が親鳥の狩りを見るのと同じ態度で眺めていた。 森に近い夜の公園を老犬といっしょに歩いているとき、危篤状態の母…

シロイルカの化物

シロイルカの化物

6月 14, 2022

リンク過剰の社会。画面には触れれば何か起こるテキスト・アイコン・バナーが隅々まで溢れかえり、さわって無反応な部分があればそれは欠陥である。 タッチパネル以前と以後の画面移動感覚には、馬車と蒸気機関車よりもおおきな差がある。馬車と新幹線、馬車とジェット機、とにかく運行本数も移動速度も馬車のそれとはケタ違いだ。私はおもわず犬猫や宇宙の記事を読みふけり、しばらくの後に洗濯機の電子音でわれにかえる。 凍結…

書いた文章が襲ってくるぞ

書いた文章が襲ってくるぞ

6月 13, 2022

ほんの少しのあいだだけnoteで記事を書いてみていた。 しかしシェアが前提のプラットフォームでは、どんなに意識しまいと気を強く持ったところで、どうにもハートと数字にぱちぱちと気が散ってしまう。むろんハートと数字は重要な時には大変重要であるけれど、私の場合、文章を書く空間はイイネやハッシュタグから遠ざけておくべきかと思った。 自分が書いた文章というのは、まるごとそのまま自分の思考のように感じられる。…

余白のすくない迷路・飛び地のひらめき

余白のすくない迷路・飛び地のひらめき

1月 27, 2022

小学生のころ、授業中、よく学校のノートに迷路を描いていた。はじめは大胆なスタートを切った迷路も、じわじわとノートが埋められていくうちに描き込める余白を失い、肩身のせまい退屈な道程になってゆく。終盤に差し掛かりどのようなゴールを設けるか考えるのだが、限られた行き場の中ではあまりダイナミックなゴール像も描けない。動きを制限され、身動きが取れなくなってゆく。 紙がまっさらに白く、何もないうちがいちばん楽…

深夜のコンビニから

深夜のコンビニから

8月 22, 2021

深夜のコンビニに入ると、店中に怒鳴り声がひびいていた。500mlのサワーを掴んでレジに向かうと、50代の男性店員が若い外国人店員を壁に追い詰め、罵詈雑言を浴びせているところだった。外国人店員はほとんど泣きそうな顔で硬直していた。矢継ぎ早に罵声が飛ぶ。お前は本当にバカだ。お前は役立たずだ。お前は本当に仕事ができねえな。お前さ、死ねよ、本当に、死ね、死ね———私がレジに500mlの缶を置くと、50代の…

「知的生産の技術」より

「知的生産の技術」より

8月 12, 2021

このところ文章を書きはじめると、いたたまれない気分におそわれる。車酔いによって絶景を楽しめなくなるのとおなじで、内蔵の不快感によって書きたいという気分を楽しめなくなってしまうのだ。 とはいえ、親しい友に宛てる文章にはいくらでも筆が乗る。伝えたいという欲望が、きっと伝わるにちがいないという信頼によって、山火事のようにいくらでも延焼してゆく。これはとてつもない快感だ。親しい友に考えを伝えるときの舌は、…

予想外の漂流

予想外の漂流

10月 2, 2018

読書というのは食人行為である。 つまりこういうことだ。私は私自身が考案したわけではない見知らぬ誰かの言語をつかい、見知らぬ誰かの言語で考えている。見知らぬホモ・サピエンスたちが数万年をかけて使用してきた言語を、私も母や父から学習した。私の唇から語られるのは他者たちの言葉だ。ゆえにこれは私の語りではないし、私の書いた文章ではないという実感がある。 私だけの語りはどこにもない。私の語りは、見知らぬ無数…

私は都市の肉体の像を描いておきたい

私は都市の肉体の像を描いておきたい

5月 25, 2018

とてつもない予感を覚えながらも、それがどんな意味を持つのかわからないことがある。 私が絵を描く時なんかは、必ずイメージとの邂逅が先にある。彼がどこからやってきたのか、どのように生まれ育ってきたのか、私には何もかもわからないが、それでもどうしようもなくそのイメージに惹かれてしまう。 ただただ惹かれるままにイメージに接触してゆくうちに、ほんの少しずつ、彼の人物像–––––––イメージの人物像とでもいう…