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ほんの少しのあいだだけnoteで記事を書いてみていた。

しかしシェアが前提のプラットフォームでは、どんなに意識しまいと気を強く持ったところで、どうにもハートと数字にぱちぱちと気が散ってしまう。むろんハートと数字は重要な時には大変重要であるけれど、私の場合、文章を書く空間はイイネやハッシュタグから遠ざけておくべきかと思った。


自分が書いた文章というのは、まるごとそのまま自分の思考のように感じられる。けれど実際のところ、自分の書いた文章と、ある瞬間自分の頭の中をマインドフルネス的に漂っている思考(ナマの思考と呼ぼう)とのあいだには、ずっとずっと大きな違いがある。

ある瞬間のナマ臭い思考が、文章化によって調理されて食える料理に、さらにうまくいけばおいしい料理になるのですから、ナマの思考と文章との違いはたいへん好いものだ。

とはいえ怖いのは、ナマの思考と、過去に時間をかけて文章化した思考とを比べると、文章の方にこそなにか「本物らしさ」とでもいうべきものが宿ってしまうことである。

人間はまちがいなくその「本物らしさ」に惑わされる。かけた時間と費やしたエネルギーの量が大きい方を、より自分の真の思考に近いと思い込みたくなるのは当然です。

こわい。


とある瞬間に、ほんとうは以前とすっかり違う方向性の思考が頭に浮かんでいるとしても、「いえ私は以前書いたように◯◯については●●という考えを持つ立場なんです」とか言って、古びた型を引っ張り出してきてしまう。

以前に時間をかけて推敲したもののほうが、その論理も風貌もかっこよくキマっていて、けっこう自信を持って他人に披瀝できるものだし、

ナマの思考———愚直で新しく、みじめで未熟で、まだやわらかく無様な思考の方は、何かそれまでのホメオスタシスを大きく外れてしまうようなシロモノだから、「こんな醜いものをわたくしの思考と認めるわけにはいきませんの」という感じで、踵でぐちゃぐちゃ踏み消して見なかったことにしてしまいたくなる。

書かれた文章は、その後の自分の思考に永く永く型を与える。
もしも、ハートとハッシュタグにまみれた空間に愛想をふりまきつつ何かに媚びて文章を推敲してしまったら(絶対すこしは意識しちゃうもん)、その後長らくそれを、私の本物の、正しい、心からの、思考だと思い込んでしまうかもしれない。

うう、怖いぞ、それは
私は自分の頭を、まるで、少しも、まったく信用していないのである。

だから、そもそも気の散るハートの無いところに引っ越そうと決めた。例えるなら山嶺の限界集落、ここ自分のウェブサイトである。こんなところには誰もいないし、いるとしたらよっぽど私のことを好きな人か、こいつの作品を買って後悔しないか見極めてやろうというしっかり者か、いまこれを読んでいるあなたがどんな人かはわからないが、こんなところまで来てくれてありがとね。


誰かをたのしませるための文章は今の私には書けない。こうして自分のぐちゃぐちゃとした中身を整理する目的の文章を書いて、ああ、いつかは赤の他人のために魂を捧げるような文章を書けるようになったらいいけど。まるで憧れのあの人のように。

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