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■2022/09/26(月)

今日は目黒雅叙園での展覧会が終わり、その搬出作業に向かったのだった。

大好きな昼の山手線だ。
渋谷ー恵比寿間の光の射し方が特別に好きなのだ。たしかに今日はあの光の中を走った。電車内の色彩感覚を思い出せる。線路沿いに古ぼけたビルが羊歯のように並び、ブロンドとライトグレーの混じった色の感覚になる。あの区間の光彩は特別だ。

それからバス、あの乗り物が好きだ。図体が大きくて、のろまで、いちいち停まって、都市を行き交う気まぐれなクジラやゾウのようなのだ。あれの体内に揺られていると妙に楽しい。さながらゾウ乗りの気分である!

こうして日記をつけはじめると、自分の記憶力のムラや歪さを認識することになる。今日はなぜか、乗り物のことしか覚えていない。

思い出そうとしなければ、思い出せない空白があることにも気が付かないですむのだが。

■2022/09/27(火)

散歩へ出かけると、歩道に這うツマグロヒョウモンの幼虫。赤と黒の身体が羨ましい。ぼくがこだわりを持っている配色だ。こんなにうつくしい芋虫が踏まれるといけないので、捕まえて草むらへ逃がす。飼ってもよかったなと後ろ髪をひかれる。あのやわらかい身体が硬くなるのを見てみたい。

草むらを後にして数歩あるくと、上品な一軒家の窓から下手くそなバイオリン。たどたどしいガヴォットの旋律。もう数歩あるくと、蛍光するようなイエローグリーンの葉が足元に5枚。目線をあげると群青色のポスターが3枚。それから、自販機の前に2匹のシジミチョウが交わって———

突如、視界にうつる特徴的な表象が、すべて意味深長に感じられるゾーンに入る。ある表象が自分自身の未来と密接に関係し、未来を暗示し、私に向かって何かを告知してくる存在のように感じられるのだ。

映画のワンシーンに効果を狙って挿入されるモチーフ、捕食される獣とか、落葉とか、曇天とか、電球の点滅だとか、ああいう表象が物語の展開を暗示する機能を持つのに似た感覚だ。

視界に入る、偶然にすぎないランダムな表象が、自分の行く末と深く関係し、きわめて不穏な雰囲気で何かを告知しようとしてくる。おそらくこの体験は、安永浩によるところの〈表象の擬知覚化〉なのだろうと思う。まあ、知らんけど。

私には、稀にそのような認知感覚になる時間がある。あの不穏さは嫌いじゃない。すぐに治まるとわかっているし、まるで映画のようで悪くない。

* * *

1kmを連続して平泳ぎ。タイムは28分。泳ぎながら距離を数えるのが苦痛だから、次からは30分=1kmとして、時間基準で泳ごう。それから全力クロール25mを6本。25mのタイムは27秒くらいか。せめてもう少し速くなりたいが。

■2022/09/28(水)

午前3時。今夜、木星がこの166年間で最接近するという情報に気付く。今夜ならば双眼鏡で縞も観測できるという。あわてて双眼鏡を持って屋上へ出るが、分厚い層積雲に阻まれて何も見えず。ベランダにキャンプ椅子を出して雲間を待つが、そのまま眠ってしまう。

夕方、原宿のSOMSOC GALLERYのレセプションパーティーへ行く。グループ展。作家と直に話せるというのは、たとえそれが見知らぬ作家だとしても嬉しいものなんだな。私自身はそのような場を避けてきたが、自分も作品の前に立つべきなんだろう。

* * *

帰り道、居住地で見知らぬ4人組の男に名前を呼ばれる。「七歩ちゃん、このあいだ一緒に飲んだじゃん!」と言われるが、全く記憶がない。見覚えもない。まあいっかと思い、好奇心で近所のバーへ。

彼らは配信者で、それぞれが飲みの様子を配信し始める。上位ランキングを競っているらしい。結果がよければ良い稼ぎになるという。中国の生配信ブーム、路上配信者たちの記事を読んだばかりなので、現場を直に見て時代が迫るのを感じる。

他人がどのように時間をやり過ごしているのかわからないが、そのひとつを垣間見た。私は配信もYouTubeも何も見ない。誰かの生活を覗くことに興味がない。しかしこの世にはそのような欲望もあるのだな。
想像する。ぼくはどんな人の日々を見たいだろうか……何も浮かばない。

* * *

深夜2時、帰宅してすぐ双眼鏡を持って屋上にのぼる。相変わらずの層積雲だが、寝転がって雲間を待ち、ほんの一瞬だけ木星を観測する。太陽系の全体像を想像する。

■2022/09/29(木)

14時、国立近代美術館。
ゲルハルト・リヒター展へ行くが、大混雑で入場制限。平日昼を狙ったのになぜだろう。

入場時間まで常設展で靉光《眼のある風景》(1938年)を見る。17歳の頃に好きだった、ひじょうに懐かしい絵画。最近は約15年の時を経て、10代の頃に熱愛した作品に再会することが何故か多いが、あまりにも印象が変わっていることに驚く。あんなに愛したものが、ちっとも胸に響かないのだ。小谷元彦の《ファントム・リム》シリーズなども同じである。

リヒター展は動線計画が最悪で、めずらしく苛々してしまった。
あんなに多勢の人々があっちへこっちへ無軌道にぶつかり合う環境で、とてもじゃないが集中できない。しかし来日の企画展で観ようとするかぎり仕方がないと思って割り切ることにする。目当ての《ビルケナウ》に絞って鑑賞する。

展示室向かいにグレーがかった巨大な鏡。右手側にアブストラクトペインティング。左手側にはそのペインティングの写真プリントが向かい合う。

ペインティングに有ってプリントに無いもの。野蛮、行為の痕跡、レイヤー、肉感、ひび割れ、引っ掻き傷、剥離、質感のムラ、反射率のムラ。

プリントでは、後退色・進出色の色相によって、レイヤーの印象が上下逆転することもある。どの色がどの色を塗りつぶしているのかわからない。野蛮さは完全に消滅。色彩の網膜的な悦び。

まあペインティングもプリントも、グレーの巨大鏡に映ってしまっては、どちらも同じ質感、同じ情報量に見えてしまうのだが。あした、図録をゆっくり読もう。

50近い男に「リヒターについて語り合いながらデートしませんか」と声をかけられる。でた、美術館ナンパだ。しかしそういうのはクリムトやミュシャなんかの企画展でやるべきであって、どう転んでもリヒターではありえないと思うのだが。魚を獲りたくて木の上を探す、マヌケな動物みたいだ。

■2022/09/30(金)

18時くらいまでの記憶がまるでない。一体何をしていたのか見当もつかないが、調子があまりよくない気もする。

このままでは一日が消えてしまうので、急遽、いつもの六本木のバーに行って4・5時間ほどバーテンダーの補佐をする。重量感あるグラスを洗ったり磨いたり並べたりしながら、無関係な他人の話に傾聴するのが好きだ。

自分とはまるで異なる収入・地位・生き方・生活圏・思想の人々の話を、完全な他人事としてぼーっと聴くのは楽しい。誰かにとって無関心でどうでもいい他人になる時間が、わりと好きかもしれない。路傍の石である。

まなざされない者としての自分と、まなざされる者としての自分が、場所によってバランスよく遍在するのがいい。まなざされすぎても苦痛、誰にもまなざされないのも苦痛だ。

「まなざされる」の横糸と「まなざされない」の縦糸で織った、織物みたいな環境にいられたら理想的だ。

■2022/10/01(土)

食べ物ではないものを食べてしまったというか、飲み物ではないものを飲んでしまったというか、どうもほかに言い様がないのであるが、12時以降、そんな感覚がとれないでいる。

ガソリン、重油、塩化ビニル樹脂、アクリル溶剤

間違いなくそんなものは口にしていないのだが、ステーキを食べればステーキの後味、ケーキを食べればケーキの後味が口内や身体感覚に残るように、どうも異物を食した後味がある。

なにか溶液の表面に硬化しかけた皮膜がただよっていて、その皺の寄った皮膜がぼくの食道や胃腸に貼り付いている気分がする。

* * *

リヒター論を片っ端から読みまくるが、心底おもしろくない。なぜだ?リヒターの作品自体はすごくいいのに。よい評論に出会っていないだけだろうか。

■2022/10/02(日)

18時頃に目が醒めたと思う。
目が醒めたというより、そのあたりからは記憶がはっきりとしている。すでに昨日の記憶も全くないし、すべてが朦朧としている。

この日記は役に立っている。1週間、七曜を意識できる。
日曜は江戸時代まで「蜜」とも呼ばれていたらしい。いいな、それ。

ぼくの時間感覚はどうしてもリニアではない。
穴や欠けがおおく、ふらふらして前後不覚である。

朝から夜、過去から現在までの記憶を順番に列べることができ、さらに自分がいまどこに位置しているのかも明晰に示せるという、そのリニアな時間感覚が現代社会の主流である。だがそれはあくまでも一つのフォーマット、ファイルの保存形式でしかない。解釈のひとつというか、書き出し方のひとつ、かな。

ぼくの時間感覚のフォーマットは、現代社会の大多数とはあまり互換性がないが、互換性がないなりの生き方をすれば問題ないとおもう。

* * *

夜、周囲の人たちに「いかにも七歩が好きそうなアニメだよ」と薦められ続けていた『メイド・イン・アビス』を2期まで全話一気に観て、そのまま映画版もすべて観てしまう。もう朝だ。

好みをぴたり言い当てられるのは癪に触るが、実際ほんとうに好みである。なぜかくやしい。

世界観も設定もキャラデザインも好きだ。天から少女が降ってきて、共に天空の城を目指すラピュタ。メイドインアビスの場合は地下だ。地下から少年が這ってきて、共に奈落の底を目指す。地上の社会には決して戻れない、ある意味では自殺の物語だ。

自分の生まれ育った場所を故郷だと感じる人と、
生まれ育った場所では異邦人のようで、旅の先に望郷をもつ人。
ぼくには故郷が無いが、旅の先につくれるだろうか。

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