■2022/10/10(月)
20時に起きる。26時間眠っていた。40時間眠ったばかりなのに一体どうなっているんだ。こんなことは初めてである。
外の空気を吸うために自転車を漕ぐ。中目黒のスターバックスリザーブロースタリーへ行く。ここは天井が高いから好きだ。建物の天井は高ければ高いほどよいものである。
このあいだ近代美術館で購入した、中ザワヒデキ『近代美術史テキスト』を読む。せっかく飲んだココアを帰り道で全部吐いた。疲れて24時に寝る。たった4時間しか起きていないが。
■2022/10/13(木)
雨だ。16時に起きる。
金曜の夜に眠ってから、ほとんどのあいだ眠っていて、かなりの時間旅行をしてしまった。
ずいぶんたくさんの夢を見た。いつだったかわからないが、夢と現実の狭間で、感情が失くなる体験をした。胸も痛まず高鳴らず、真空のように静まり返って穏やかだった。強烈な違和感のある穏やかさだ。
穏やかさと快い感情は、これまでいつも一揃えであった。しかし今回、穏やかなのに快くもなく、心地良くもないという状態を、初めて体験したと思う。
ただ穏やかであることは不気味だった。それならば悲しかったり苦しかったりする方がましだ。感情は讃歌だ。暗い曲調でも無音よりいい。
私には信仰する神がいないが、
神がいるとしたら、彼/彼女はきっと感情を持たないだろう。
感情には指向性がある。
悲しみ怒り歓び、ある方向へと落ちていったり昇っていったり、過去のある状態とは異なる状態へと向かっていく感覚がある。感情はどこかを指向する営みだ。
上下左右、過去未来、善悪などという指向性を持っていては、神には成り得ないと思う。指向性があれば普遍的な世界創造はできない。だからおそらく神は人型ではない。左右相称動物の形はしていない。左右相称であれば、指向性を持たざるをえないから。
私は左右相称動物の人型だから、感情を持つのが自然だ。激しい指向性のある感情に身を晒すのが自然だと思う。抑えようとしないほうがいい。感情こそ世界への讃歌だと思う。私は人型をしている。地面があり天があり、前後左右がある。形が先んじて、形から感情が生まれているのではなかろうか。
■2022/10/14(金)
東京芸術劇場へ。
ベートーヴェンとナポレオンをテーマにした演奏会を聴きにいく。
ヴァイオリン・ソナタ第9番《クロイツェル》を聴けてよかったと思う。知らない曲だったが、特に第一楽章を好きになった。特にというか、第一楽章だけを極端に途方もなく好きになった。つくづく感情的な色調だ。死にかけていた今の気分にすごく合っていた。
私は音楽について何もわからないが、多勢の人間が集って何か一つのことをしている様子を、ほんの少し離れて眺めるのが好きだと思う。オーケストラを目の前にして息をひそめている間、とてつもない快楽を伴った疎外感を覚える。集う人々が多勢であればあるほどよく、一体感があればあるほどよい。すばらしい能力を持つ人々の集団を目の前に、自分が疎外されているのを感じたい。
よくわからない欲望だが、子供の頃からこの気持ちがある。
自分のクラスの授業が行われている教室から、扉一枚を隔てた非常階段に隠れて、彼らの声に耳をそば立てた。自分のクラスが校庭で体育の授業をしているのを、屋上から双眼鏡で眺めたりすることに興奮した。あれが大好きだった。参加しないのが好きだった。参加できないことに妙な快楽がある。
以前から気がついていたが、演奏会へ行く時はいつもそうだ。私には演奏そのものの善し悪しを判断する知能はないが、多勢の人々による精密な営みを肌で感じることに楽しさをおぼえるのだと思う。集団演技がすごく好きだ。
■2022/10/15(土)
CLIP STUDIOを導入。
今までAdobe Frescoで絵を描くことがあったが、CLIP STUDIOの性能に驚く。コミック向けのアプリケーションだと偏見を持っていたが、私の制作にも向いているかもしれない。自分のデザインブラシを作成するため、調査、試行錯誤、テスト。一日が終わる。これはいい。夢中だ。
■2022/10/28(金)
ものすごく散らかった部屋の中心で、仰向けに倒れている気分だ。
あくまでも気分というか頭の中の話であって、実際のところぼくの部屋はかなり高いレベルで整頓されている。収納を全ておなじ規格にしたこと、収納の数を多く用意したこと、物の住所を決めたことが勝因だ。
頭の中もおなじようにできるんじゃないかと思う。
すなわち規格を統一すること、置き場所を決めることである。
ぐちゃぐちゃのアノミー状態も、短期間ならば生活の風味だと思えるが、長く続けばきつくなる。アウトライナーの運用をまた再開するといいかもしれない。複雑に散らかっているように感じられる頭の中も、ひとたび整理してみれば、その要素の少なさに笑いが込み上げてくるものだ。
整頓はすばらしい課題で、私の好きなテーマである。ものを配置すること、配置の関係を見ること、形を整えて収めること。この行為には生活上の必要性を超えた魅力がある。まだうまく言えないが。
* * *
日記が2週間あいてしまった。まあそんなこともあるだろう。
この2週間、大きな変化が3つあった。
まず、ほとんど毎日ジムに通い、クロストレーナーとマシンを欠かさないようになった。体力の低下に危機を感じたからだ。
そして、この数週間ずっと吐いているから、そもそも何を口に入れているのかすべての記録をつけるようになった。その結果、自分は馬鹿みたいに同じものばかり繰り返し口に入れていることがわかった。明らかに海藻類を摂りすぎていると思う。べつに好物だという認識はなかったが。
それから何より、CLIP STUDIOでのブラシ制作に夢中になっている。ほとんどの時間をこれに使っている。このブラシを使ってはやく色々なものを試したいが、まずは来週から始まるグループ展の用意を完了させないと。
■2022/10/29(土)
深夜、梨泰院で起こった群衆雪崩の事故を知る。
かなり辛い。生々しい現場の映像を夢中になって検索しては見続ける。
当然だが、ぼくらはある日突然に友や恋人や家族を失うことになる。ぼくはいつも、いま目の前に居ない友人家族は、死人と同然の存在だと思っている。会って「バイバイ」を言う時には、いつもこれが最期の挨拶なのだと思う。ふたたび会った際には、なんだか故人が蘇ったように感じられる。
こうした突然死の事件に接すると、強烈に、ぼくらは別存在、別々の個体なのだと痛感する。ふしぎなことだ。ぼくらはほとんど同じ形、同じ仕組みをしているのに、どこか根本的に全く異なる存在だと感じられる。自己とそれ以外という部分だろうか。自分が消えるとき、自分が消えたことは認識できないのだろうが、他者が目の前から消えたときには身体の全体で深く激しく痛みを感じる。
大切な誰かを突然に失った人々のことが心配でたまらない。
■2022/10/30(日)
秋葉原で犬に出会った。
犬というか、犬を散歩させる老人に出会ったのだが、あの者たちはどう見ても犬のほうが主体だったので、犬に出会ったという印象になる。
その白い犬によると、いつも神田明神の境内を散歩するのが日課だったが、ある日を境に匂いを辿って秋葉原まで足を伸ばし、何軒ものケバブ屋を巡るようになったのだと言う。
犬が店の前を通りかかると、手に肉片を握ったケバブ屋の店主が出てきて「おすわり」「待て」「吠えろ」と言う。なんでも、トルコでは犬に「吠えろ」を教えるらしい。肉片を平らげた犬は、多少の愛嬌を振りまくことすらせず、次のケバブ屋へと走っていった。合理主義である。外見が愛くるしいからこそ為せる技だ。
通行人に愛でられることを欲する犬もいれば、このような合理主義的ケバブ犬もいる。可愛くはないが、なかなか尊敬できると思う。あのケバブ犬は、彼を愛でようと近寄る人々の顔を、一瞬たりとも見ようとしなかった。強い目的意識を感じる。尊敬できる振る舞いだった。