• Reading time:3 mins read
  • 投稿者:
You are currently viewing 「知的生産の技術」より

このところ文章を書きはじめると、いたたまれない気分におそわれる。車酔いによって絶景を楽しめなくなるのとおなじで、内蔵の不快感によって書きたいという気分を楽しめなくなってしまうのだ。

とはいえ、親しい友に宛てる文章にはいくらでも筆が乗る。伝えたいという欲望が、きっと伝わるにちがいないという信頼によって、山火事のようにいくらでも延焼してゆく。これはとてつもない快感だ。親しい友に考えを伝えるときの舌は、脳より高度な器官なんじゃないか。

しかし、インターネットに文章を公開するつもりで書くとなるとそうはいかない。
友に宛てるように書けばいいものの、どうしても未知の読み手を想定する。とうぜん、だれが読むかわからないことや、まちがった受け取り方をされることは、文章を書く面白さのひとつだと言える。そうとわかっていても湧いてくる、このいたたまれなさの源泉はどこにあるのか。


まず前提として、私は書くことそれ自体の享楽を楽しみたい。ファンができたらいいなと思う多少の気持ちもあるが、それはオマケにすぎない。私は書くことそれ自体の享楽によって書かれたんだなと思える文章に面白みを感じるから、自分も書くことそれ自体の享楽によってこそ書きたいのだ。

一冊の本の中でも、書く享楽によって書かれた部分はすぐにわかる。読み手にこう感じさせてやろう、という欲望を感じないのだ。

これを啓蒙してやろう、好印象を得てやろう、感動させてやろう、という欲望部分を読んでいるときには、壇上の胡散臭いスポークスマンを眺めるようなシラケを感じる。けれど単なる享楽によって書かれた文章には、まるで閉ざされた書き手の自室に耳をつけて、彼のひとりごとを盗み聞きしているような、密室のたまらない面白さがあるのだ。


2000年代のことである。
私が子どもの頃のインターネットには、『チラ裏スマソ』という有用なスラングがあった。元々は、へたくそな独りよがりの書き込み(まさに享楽によって書き殴られたものだ)に対して「そんなのは個人的にチラシの裏にでも書いておけ」と貶す目的を持ったスラングが『チラ裏』である。チラ裏乙、と一蹴するのに大変便利だった。

転じて、
さんざん好き勝手に書き殴っても『チラ裏スマソ』とさえ書いておけば、「これはチラシの裏にでも書いておくべき独りよがりの(または関連のない)内容だと自覚していますが、それでも書かせてくださいね、ごめんなさいね」というお断りの姿勢を見せることができたのだ。

スレの住人たちも『チラ裏スマソ』とお断りのある書き込みに対しては、「自分語り乙」や「だから何?」等の追及はあまりしなかった。自覚してるならいいんだよ、ということなのだろう。


しかし昨今の、
とりわけ2015年以降のインターネットでまとまった文章を書くときに、はたして『チラ裏スマソ』が通用するのだろうか。

インターネットは当然のように役立つ記事にあふれている。手の込んだ、笑える、泣ける、感動させる記事ばかりがイヤでも目につく。何かを持ち帰らせてやろう、スゴイと思わせてやろう、面白がらせてやろう、という欲望によって書かれた文章ばかりじゃないか。

だから読み手は記事のタイトルをクリックする際に、きっと何かを持ち帰らせてくれるだろう、という無自覚の期待をあらかじめ込めている。そんな読み手に対して、これはチラ裏ですから、あなたも読むことそれ自体を楽しんでくださいね。チラ裏スマソwと気軽にお断りすることはかなりしづらい。

何か役立つTipsを求めていらしたのだから、こちらも何か喜んでいただけるお土産をご用意してさしあげなければ…と、私は思ってしまうわけだ。
けれどそんなもの用意できないというか、用意しなければ…と思うとたいへん腰が重くなる。というわけで、私は文章を書こうとすると、なんともいたたまれない気分になって、けっきょくいつも中断してしまうのである。要らん気をつかう、ということなのだろう。


何か役立つことを、何か良いことを言わなければ…という意識はほんとうに最悪だ。良いことを言おうとするときには、こう言えば大多数の人々が「良いこと言ってるな〜」と感激するだろうな、という想定をおこない、発言を組み立ててゆくわけだ。さながら冠婚葬祭のスピーチである。

しかしこの想定は、おのおのが想像する自分以外の「大多数の人々はこんな感じだろう」という幻想なのではないだろうか。その大多数とはじっさいのところ、誰のことなのだろうか。

大多数の誰かを想定することで完成するのは「多くの人は感動するだろうけど、私にはまあまあかな」という、じつはほとんどの人にとってまあまあな文章なのかもしれない。
もしかすると「みんなこれで感動するだろうから、とりあえず自分も感動しておこう」という同調意識によって、いいねがより多く集まっているだけかもしれない。

「書けないときは特定の友人に宛てるように書けばいいんだよ」と文筆家がいうのをよく見かけて知ってはいたが、その真意までは理解していなかった。「大多数の人には伝わらないかもしれないけれど、きっと君には伝わるだろう」の方がぜんぜんマシだという当然のことが、やっと何となくわかってきたように思う。


きのう、梅棹忠夫著『知的生産の技術』という1969年の本を読んだ。岩波新書の青いやつだ。第8章・手紙『形式再建のために』の一部を紹介する。

梅棹によると、昨今の(1960年代の)日本人は手紙を書かなくなってしまった。それは内容第一主義の考え方とつながっているに違いないという。
昔は手紙の形式がしっかりと決まっていたから、形式を覚えるのはわずらわしいけれど、形式さえ用いればまったくの無内容でも立派な手紙が書けた。

ところが、形式が否定されてしまうと、こんどは各人の責任において、いきいきした名文をかかなければならなくなったのだ。しかも、内容第一主義のかんがえかたは、手紙においては、真情主義になる。われわれは手紙において、真情を吐露しなければいけないことになってしまったのだ。
(中略)
けっきょく、形式を排して、真情吐露をとうとぶという風潮は、結果においては、手紙を一部才能人の独占物にしてしまったのだ。ふつうの人間が手紙をかかなくなったのは、あたりまえであろう。

梅棹忠夫著『知的生産の技術』第8章・手紙〈形式再建のために〉

手紙では真情を吐露しなければ、という風潮によって、手紙を書きにくくなっているのではないかという指摘だ。
2020年代の私も、友人に手紙を書こうとすると、どうも過剰にエモーショナルになってしまう。手紙とはそういうものだという意識があるのだろう。

自分の問題に置き換える。
インターネットのブログ記事には、役立つTipsや、感動するエッセーを書くべきなのだという風潮によって、どうも文章を書きにくくなっている。

価値ある主張や教訓を含めなければならないんじゃないか。含蓄ある内容を言わなければならないんじゃないか。真情を吐露しなければならないんじゃないか。さてどうにかして、いきいきした名文を書かなければ……。

読み手の大多数(いったい誰のことだ?)は、役に立つTipsと感動を求めているに違いないと、私は勝手にそう想定してしまっているのだ。この想定によって文章を書きにくくなっていることにも気がつかなかったし、そもそもする必要のない想定だということにも、ずっと気がつかずにいたのだった。


私はある時、
沖縄県の小さな離島に泊まろうと思い、島に3軒しかない民宿のひとつに電話をかけたことがある。民家の離れにむりやり布団を敷いたような宿だ。

電話先の女将が言う。
「ほんとにこんなところ泊まるのか?やめときなよ、なーんもないよ。」
思わぬ発言に私はすこし笑いながら
「ええ、何もなくていいんですよ」と応える。
「あっそ。ほんとになーんもないけどね。自転車は貸したげるけどね。すぐに飽きるにちがいないよ。それでもいいなら泊まりなさい。」

訪れた私は「ほんとに何もないや…」と思いながら、小物入れとして再利用されている豆腐のプラスチック容器とか、よぼよぼの爺さんの喋り方とか、葉っぱのヘンテコな虫食いとかに、ひとりで勝手に面白みを感じるわけだ。

写真はカンボジアの首都プノンペンで撮った部品屋。
(noteから移管した記事です)

コメントを残す