読書というのは食人行為である。

 

つまりこういうことだ。
私は私自身が考案したわけではない見知らぬ誰かの言語をつかい、見知らぬ誰かの言語で考えている。
見知らぬホモ・サピエンスたちが数万年をかけて使用してきた言語を、私も母や父から学習した。私の唇から語られるのは他者たちの言葉だ。ゆえにこれは私の語りではないし、私の書いた文章ではないという実感がある。

私だけの語りはどこにもない。私の語りは、見知らぬ無数のホモ・サピエンスたちの語りと相似形をしている。(ゆえにその語りの内容は正しい、という多数派の論理をそこに持ち込むことはできない。相似形には多数派も少数派も存在しえない)
だから見知らぬ誰かの書いた文章がおもしろい。それは他者たちであり、私でもあるからだ。

 

私が固執しつづけているフラクタル構造がここにも顕れる。
私は本を読み、誰かの語りを体内に取り込こんで血肉とする。それは食人の行為である。

 

もちろん読書以外にも食人の手段は豊富にある。私は友人や知人に会うとき、彼ら彼女らを食べるつもりで会っている。特に気に入った人物は余すことなく骨まで食べ尽くそうとするし、気に入らない人物に関しても珍味だと思って嫌々ながら味覚を確認しておく。

人と会うことが生食ならば、読書は謂わば保存食だ。
実際に対面したことのない人物だけでなく、何世紀も過去の人間をも食すことができる。

ほんの数千円程度で本を入手できる時代に生まれて本当に幸運だったと思う。
私の今のお気に入りはアンドレ・ブルトンの『ナジャ』だ。

 

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この夏から私は、
生まれて初めてまともな態度で、文章を書くという行為に及んでいる。
すぐに気付いたのは、文章を書くという行為における享楽のひとつが〈予想外の漂流〉にある、ということだ。

白紙の上に少ない言葉をそっと置けば、それはたちまち連鎖して増殖する接続の激流となり、そうして語りがはじまってゆく。
単語と単語の接続、言葉と言葉の接続における、無視することのできない秩序的な流れ。それは山から海へと河が流れるように不可逆的な秩序である。その秩序に抗しようものなら、語りはたちまちゲシュタルトを失い沈んでゆく。なので私は語りという舟を河の流れに従わせる。
しかし言語の河の退屈とも思えるような秩序的性質が、語りの舟を混沌の世界へと運んでゆく場合もある。〈予想外の漂流〉だ。

言語の秩序的激流の力強さに触れること、それはこれまで地球上に存在してきた無数のホモ・サピエンスたちの生々しい体温を感じるような体験だ。
激流を前に、私が企図するくだらない舵取りなどほとんど無力である。

行き先を言語の河にゆだねると、私の小舟は見知らぬイメージの岸に漂着する。私はそこへ上陸する。見知らぬ果実がみのり、見知らぬ動物がその鋭い眼光でこちらを伺っている。私は彼らを写真に収めると、また頼りなく軋む小舟に乗りこんで出発する。繰り返される〈予想外の漂流〉だ。時間はあまりない。

 

この河は私を海へとつれてゆくだろうか。

それとも河は、海の存在を夢想する愚かな私を嘲笑っているだろうか。

 

この行為は旅よりも旅だ。
とてもおもしろいと感じている。

 

 

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